【 序章 】
指の腹に違和を感じた。
つるりとした球体の表面で、そこだけがぷくりとふくれあがっている。
「わかるか?」
そう問われたのでコクリとうなずく。
机の反対側に座る男から、「よろしい」と短く声が返った。
立羽はふり向いて、すぐ後ろ側に立つ少年の顔を見上げる。彼もまた同意の意思をあらわしたのか、双眸を細めて柔らかな笑みを浮かべていた。
「それが《曲(わた)》と呼ばれているものだ」
男が言う。
「曲……」
立羽は答えるといま一度指を動かしてみる。直径が五十センチもあろうかという玉(ぎょく)の表面、その一点にだけわずかな突起物がある。
玉は磨きぬかれた大理石にも似ていて、他があまりにもすべらかなので、どうにもそこだけが気になってしまう。何度も撫でるようにするうちに、知らずに力が入っていたのか、カリリ……爪の先が引っかけてしまった。
「いけない」
支えるようについてくれていた少年が、制止の声と共に立羽の小さな手を包み込んで止めた。
はっとして男のほうに目を向けると、彼もまた「そうだ」とうなずいて寄こした。
「無理に剥ぎ取ろうとしてはいけない。指の先で少しずつ撫でるようにしてやるんだ。そうすると自然に溶ける」
少しずつ、少しずつ。言われたとおりにして、立羽は曲と呼ばれる玉にできた突起物を撫でた。
少しずつ、少しずつ……塊を溶かすようにして、結び目を解くようにして……
少しずつ、少しずつ……
やがて、突然訪れたその瞬間に「あっ」、と。
驚きのあまり小さな声がこぼれ出ていた。
するりと溶けて霧散する。確かめるようになぞり触れてみると、つるつるとした石の上を指の先がすべるだけで、先まで確かにあったはずのそれは、跡形も無く消え失せている。
どう? と問うようにして後ろに立つ少年の顔を見上げる。彼の大きな手が立羽の手の下にすべりこんできて、彼女がしたのと同じような仕草で玉の表面をなでた。
「いい。上出来だ」
ほぅ……
安堵のため息がこぼれた。
突起が溶ける時に生じたわずかな熱、それがまだ指の先に残っているような気がして、消えてほしいような名残おしいような、なんとも言えない気持ちで自らの手を見つめていると、突如空が軋むような音をたて、突風が窓を叩いた。
「……っ」
立羽は息をのみ、わずかに身を硬くする。
雷鳴――
だがしかし、それを伴うような雲の姿は何処にも見えない。
ならば、いったい何が空を震わせたというのか。
心当たりは、すぐに胸騒ぎとなり頭をもたげた。
「私のせい? 私があれを解いたから? だから?」
「そうだ。曲を解くことでそこに淀んでいるエネルギーを解放したがためだ」
失敗したのだろうか……?
途端に心細くなる。言われるがまま玉に触れ、言われるがまま曲を除去した。初めてのことに舞い上がり、覚悟よりも好奇心の方が上まわっていたというのが本音でもある。だから真剣さが足りなかったのだろうか、とそんなことを思ってみたりもした。群雲のように広がる不安に顔を曇らせると、それを見て察したのか、男がやんわりと否定する。
「気化熱のようなものだから気にすることはない。そこにあるものを取り去ったのだ。多少の反動は起こる。ただ、それをいかに小さく収めるかは《玉の手》であるお前たちの腕の見せ所でもある」
男は窓際にまで歩み寄ると、締め切りにしていた硝子戸を引いた。海からの涼やかな風が部屋の中央にまで届いて、立羽の頬をなでていった。
自宅にいるときの彼は大抵の場合着流しを着ている。時代錯誤だと言う者もいたが、すらりと背の高いその人にはとてもよく似合っていて、立羽も洋服を着ているときの彼より和装でいるときの彼の方が好きだと思った。
「曲も規模が大きければ、こうは簡単にいかないだろう。ただ、小さなものなら今のように玉に異変が生じた時点で解いて消すことが出来る。確かに、今回はやや反動が大きめに出てしまったのかもしれないが、それも数を重ねるうちに自然と小さくするコツが身につく。だから、初めてにしては上手くやったと言おう。お前が気に病む必要は何もない」
「さっきの感覚を忘れないように」
男と少年にそう言われ、ようやくはにかみながらうなずくことができた。
「うん、似ていたから大丈夫だと思う」
「似ていた?」
立羽はカウチに手をかけると、自分の背丈では少し高さのあるそれに、ひょいと勢いをつけて腰かけた。
この家にあるものはすべて、和風だか洋風だかよくわからないところが気に入っているのだが、主を含めて立羽には少し大きすぎることが不満のひとつだった。
あの玉にしても少年や男が操る様は颯爽として格好もいいのに、立羽がするにはまず手が届くようにしてもらわねばならず、踏み台の上に立たされることになった。決まりが悪いことこの上ない。
「あのね」
そう言って立羽は一度言葉を切った。うーん、と考えるようにして視線を天井に向ける。どう言えばうまく伝わるのだろうか。
「図画の授業では絵の具を使うの。絵の具って、チューブの中では柔らかなんだけど、パレットに出したままにしておくと固まってしまうのね。先生は最初に全部、十二色なら十二色、準備の段階から出しておきなさい、って言われるのだけど」
立羽は紫陽花の絵を描いた。色はなるべく混ぜて使うようにと教えられたので、紫も青紫や赤紫など濃淡様々な紫を作って花の色を塗った。それでも、どうしても使わない色というのはあって、絵を描き終えたあとのパレットには、白と黒が手付かずのままで残ってしまった。水分が蒸発してカチカチに固まったそれは、洗おうとしてもなかなか落ちず、立羽の手を煩わせた。
水の中でゆっくりと溶かす。
指の腹でなでて水の中に溶かす。
少しずつ、少しずつ、急いてはいけない、
少しずつ、少しずつ……
別にそういう決まりがあるというわけではないのだが、なんとなく事を急いてしまうのがもったいないような気がして、立羽はゆっくりと時間をかけて固形化した絵の具を水の中で撫でていた。
あれに似ている。とてもよく似ている。
ただ、こんな説明の仕方でわかってもらえたのだろうか? 半信半疑のままうかがうようにして眼差しを向けると、男は、
「おまえが覚えやすいようにして覚えればいい。言葉で説明したからといって必ずしも伝わるというものではない。あれは理屈ではないのだから」
そう言うに止めた。
夕暮れ間近の空が窓の向こうに広がっている。どこかアンバランスな空。赤と青をまばらに置いて、それぞれを水で溶いて薄くのばしたかのような、綺麗だけれど不気味さの漂う七月の空。
明かりをつけないでいる部屋の中は当然のこと薄闇に沈む。古いけれどがっしりした造りの柱、そして高い天井、それらは時間の流れに燻されていたため、すでに一足先に夜の帳へと溶け込んでいる。
「ねえ」
立羽は男の名を呼んだ。
「眞人おじさん」――と。
「失敗したらどうなるの?」
何故、それを口にしてしまったのだろうか?
聞くべきか、聞かざるべきか迷い、立羽の心がその答えを導き出すよりも先に、彼女の口はそれを音にしていた。頭の片隅で本能的な何かが警告を告げている。にもかかわらず、どうして……
「玉に現れるのは空間の歪だ。故にそれが生じれば解いてやらなければならない。だが、無理に剥げば傷つく。空に亀裂が走れば当然」
当然。
――世界は砕けることになるだろう――
いつもと同じ声。穏やかな声。けれど、立羽はその裏側になにか底知れぬものが潜んでいるのを見たような気がして、くっと短く息を詰めた。戸惑い、次の言葉を発せないでいる立羽に、男は軽く頭をふって、
「何もこの星の全てをどうにかしろと言っているのではない」
「わかっている」
立羽もまた、頭をふった
「わかっている……水籠は特別に不安定に出来ていると言うのでしょ? でも……」
何故、彼はこんなにも泰然としていることができるのだろうか。息苦しくは……重圧に押しつぶされるようなことはないのだろうか?
時が過ぎ、自分もこの男と同じだけの歳を重ねることができたなら、同じように穏やかな目をして、同じように穏やかな心で、同じように静かに佇んでいることができるのだろうか――?
空の色が深みを増している。赤と青とが絶妙に混ざり合い、されど双方とも頑ななまでに自らの色を主張し合い。
空が、凄みを増している。あざやかで艶かしく、綺麗だけれど、でも、
でも……
「怖い」
立羽はまぶたを伏せた。世界が終わろうとする日の空は、もしかしたらあんなふうな色で燃えているのかもしれない。
そう思うとたまらなく怖い。
足音が近づいてきて、やわらかな手のひらが頭に触れたかと思うと、やさしく髪を梳いてくれる。
「大丈夫だ。私や真識もついているのだから、心配することはない。お前はきっといい巫女になるだろう」
大きくてあたたかな手のひら。不安は依然としてそこにあったが、少しずつ呼吸が楽になるのを感じる。
ひとりではないのだ。少なくとも、そう……
眞人がいて真識がいた。火の色をした空と、夏の気配をはらんだ風の記憶。
その日の出来事を、立羽は今でも鮮明に覚えている。
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