■ 色は匂えど・・・ 1



 梅雨空に阻まれ久方ぶりに見た蒼天も、今は鬱蒼と繁る木々の間に、細切れとなった姿をのぞかせるばかり。
 苔むした石段をひとつ、またひとつ、上る。
 深緑の果てに見えてくるのは黒い冠木門。時の流れに燻され、威厳と共に立ちはだかるそれを、一度だけ立ち止まり、仰ぎ見て、そしてまた何事も無かったかのように足を進める。
 幾度となく歩いた道だが、よもや感慨深く思う日が訪れようとは。
 わからないものだな ――
 浮んだ笑みは、いくらかの戸惑いにより苦笑に変わった。離れていた時間は柄にも無く己の中に感傷なるものを生み落としてくれたようだ。
 玉砂利を行く音で静寂を散らす。正式な訪問ならまずは母屋に顔を出すべきなのだろうが、今の時間帯だと空振り終わる可能性の方が高い。
 人がいるならこちらの方だ ――と勝手知ったるその庭先を横切る。


 見慣れた光景であり、耳慣れた音なので、今更驚きはしない。
 稽古場の方から男がひとり飛んできた。おそらく蹴り出されたのだろう。勢いよく宙を舞い、幾分先にある銀杏の木に激突し、落ちた。
 見知らぬ顔である。意識はないが、息はあった。ここにいる以上、少々のことでくたばる素材でもないだろう。そう思い、襟首をつかむと形ばかり助け起こし木の根元に置きなおした。
「いいのよ、九郎君。放っておいて頂戴。今吊るさせるところだから」
 先の一撃で半壊した入り口に里香子が立った。どこの軍属かと思うような出で立ち、その雄々しい立ち姿の後ろから、若手がふたりほど駆け出してきて、ひとりは飛び散った扉を、ひとりは気を失っている男を抱え、それぞれ己の役目を果たすために急ぎ奥へと取って返した。扉は修繕されるために、男は吊るされるために……
「悪かったわね、わざわざ足を運んでもらって」
 里香子が下履きをひっかけ、庭に降りてきた。
「かまいませんよ。時間に融通が利くのはこちらの方ですから。それより、今のは新入りですか? 見ない顔ですが」
「それほど新しいという訳でも……でも、まだまだね。私に蹴り出されているようじゃぁ、まだまだ」
 負ければ吊るされるのがここの仕来り。当然、吊るされる回数が少なくなればそれだけ強くなったという証なのだが。
 そういえば、ここへ来て初めて自分に稽古をつけてくれたのは、他でもないこの里香子だったということを、九郎は今更ながらに思い出していた。
「ご謙遜を。あなたはお強いですよ、御前」


「何か変ったことはあって?」
 特に……と言おうとして思いなおす。
「高嶺の所在がつかめました」
 昨日の夕方入って来た知らせを告げた。
「どこに?」、と問われたので、大まかな地名を伝える。
「あの辺りは確か……」
「ええ。何かに巻き込まれているようではありますが、今のところこれといった動きも見られないので当面は静観することになりました。命に支障を来たすようでしたら身柄の確保を指示します」
 里香子は「そう」、と短くうなずき、行く手をさえぎる様に垂れている紅葉の細枝を指先で払った。
「高嶺君は、すぐにこちらへ来るものとばかり思っていたけど」
「本人もそのつもりだったようですが……ただ、あれが時間を必要とするなら与えてやるのも悪くはないかと」
 心を決めかねているなら存分に悩むがいい ――
 そう言ったのは九郎。容易に答えが出ないのは重々承知の上。それでも、たとえ曖昧なままであっても、選ばなければならない日は必ず訪れるのだから。
「選んでしまえば、もう後戻りはできませんし」
 残酷だとは思うが、迷いを残したまま道を定めても、一度選んでしまった以上は己の下した決断になる。後悔が襲うことはあっても二度とその分岐点に立ち戻ることは許されない。
 ならば、悩め。時の許す限り。
「あなたはいくつだったかしら? うちへ来たの」
「十五ですよ。あとひと月で十六になるところでしたが」
「そう。もう少し大きくなってからだったような気がするのは、妙に大人びた子供だったせいからかしらね」
「さあ、どうでしょう? 自分では特に自覚もありませんが」
 度々話題になるのはこの不必要に若く見える容姿の方だったりするので、性格のことは「裏があるだろ、絶対」と言われている程度のことしか知らない。別に、意図的に二面性を使い分けているつもりはないが、今身を置いている世界には必要の無い感情というのもあるわけで……
 だからあえてそれを表に出さないでいる、ただそれだけのことだった。
「あ、ここにあった東屋、撤去したんですか」
 ふと、見慣れた光景故に違和を感じ、九郎が問うと、
「ええ」
 なにやら含むところのありそうな声が返った。
「常々不思議に思っていたのよ。どうして夕方になると、ここで膝を抱えて座り込む者が現れるのか」
 たとえば、何か失態をしたり、稽古で望む成績を出せなかったりした者たちは、その大半がここに来て座る。感情が心の底から溢れ返り、どうしようもなくなるというのだ。
「景観が寂寥感を煽るらしいのね。木々の位置とか石の置かれ方、空の見え具合に何かが呼んでいるような水面。そして思わず縋りたくなるような古びた東屋の壁。全部視覚的効果を狙って計画的に配置されていたわ」
「でも、東屋くらいで解決しますかね? 性格からするに二の手三の手を仕込んでいるような気がするんですよ」
「今のところ問題は解決している状態だけど、また別の現象が起り得るっていうこと?」
「おそらく……」
 九郎は頷く。起り得るというか、既に起っている可能性の方が高い。ただ、それがまだ目に見えて現れていないだけのことで……
「何があるかは ―― あなたも知らないのね、九郎君」
 主犯は別にいたが、共犯として仕掛けを施したのは九郎だ。唐突に嘘を白状したくなる自爆スポットや、唐突に悲しい音色で笛を奏でたくなる哀愁スポットなど、実際にその効果を確認したものもあれば、未だ自分のした仕掛けがどう働くかを知らないでいるものも数多くある。
「ええ。色々手伝わされはしましたが、仕組み自体に関してはそれほど詳しくないですから」
 色あざやかによみがえるは 《 主犯 》 との日々。九郎がそれに思いをはせていると、横に立つ里香子の双眸がすっと細められた。
「後で知っているトラップ全て報告しなさい」
 低く、有無を言わせぬ声が命じる。
 成す術もなく苦笑するしかなかった。

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