■ 色は匂えど・・・ 2



 山奥という意味でなら、然程花守と変らない環境にある譲葉の家だが、花守が山村の形を取り、形式的には近隣の集落にも門扉を開いているのに対し、こちらは端から某企業の社有地として、外界との接触を完全に遮断した状態にあった。
 朱色の鯉が泳ぐ水面に、ライトグリーンに透ける紅葉の青葉があざやかに映える。
 視線を留めていたのは、時間にすればほんのわずかなことなのだろうが、そこに何か思うところでもあったのか、里香子は九郎に「懐かしい?」という言葉を投げてきた。
「あなたほどの人ですもの。今の仕事をもの足りなく思っていても仕方がないかしらね」
 九郎はやんわりと頭を振る。
「そんなことはありませんよ。逆にもの足りなく思うほどの余裕なんて無いくらいです。子供があんなに手のかかるものだとは思ってもみませんでしたから」
「それは……」
 まあ、そうでしょうけど……と里香子は笑い、
「ごめんなさいね、九郎君」
 視線を伏せたままで言った。
「謝らないで下さい、御前。御大の判断に間違いはありません。俺でもきっと同じことをしたでしょうから」
 今でも全ての感情を処理し切れているとは言い難い。けれど、最後の部分だけは本当だった。もしも自分が判断を下す立場にいたなら同じことをしただろうと思う。現時点での適性を考慮の上、使えないのなら迷うことなく切り捨てる。
 夢、破れて……
 自らの手で成したかったことはあるが、願望などなんの意味も成さない。そんなものを理由に居場所を与えてもらえるほど甘い世界ではないのだから。己の力量を見誤れば瞬く間に命を落とす。自分でなければ、自分のために犠牲になった誰かが。そんな世界だ、ここは。
 それでもなお、食い下がろうとする輩がいたとすれば、九郎は容赦なく言うだろう。
”自己満足など必要ない。そういうのはただの我侭だと言うんだ。自分にどれだけの価値があると思っている? 力を持たずして、ただ己の無念だけを叫ぶな。多大なる犠牲の上に、お前ひとり思いを遂げたとして、そうすることにいったいどんな意味があるというんだ”
「一線には向きませんから。それだけの話です」
 身の程をわきまえろ、と……
 容赦なく、言い捨てるだろう。
「長生きして頂戴、九郎君」
「ええ、そのつもりですよ」
 穏やかに笑むと、言った。

―― 平気な顔をして嘘をつくねぇ。まあ、私も同じだからいいけど。所詮嘘は嘘、キレイなウソなんてないんだっていうこと、きちんと理解できているならいいのじゃないかな? ――


「それで、花守の方は受け入れを了承してくれたと解釈していいのかしら?」
「はい。些かイレギュラーではありますが、然したる問題にはならないとのことです。いつでも寄越すようにと、里長からの言伝を受けてきました」
 里香子は軽く頷くと、唐突にひとつ吐息して視線を斜め上に向けた。はっきりとしたその眉を寄せるもすぐに解く。どうやら表情を決めかねているようだ。
「このままここで育てることもできなくはないのだけど」
「はい。そうされるものとばかり思っていました」
「社会性に問題有り」
「は?」、と九郎が疑問符を打つ。それが誰のことかを考え、そう言われるに至った<原因>を思い浮かべた時、
「ああ」
 九郎はひとり得心した。
「流石に早いわね。そういうことよ。集団への適応能力、協調性というものがさっぱり。ここで縦社会を叩き込むことは可能でしょうけど、でも、ここはここでまた特殊だから、あまり意味がないと思うの」
 今更もう手遅れかもしれないけれど……里香子は嘆息する。
「手を煩わせることになると思うけど。いいえ、絶対に煩わせるでしょうけど! 確定よ、わかっていますよ、でもね!」
 それでもまだ、わずかに残された可能性にかけることを選んだのだろう。
「別に、明るく屈託のない子になれというのじゃないの。ただ、この世界には自分以外の人間もいるっていうことに気付いてほしい。あの子はそれを知っていても理解することができていない」
 人との係わりが何を産み、互いにどう影響を与え合うのか。
 生まれ落ちた以上、人は、決して自分独りだけの世界を生きることはできない。望もうが望むまいが、何かしらの繋がりが生まれ、しがらみが生じる。それは大人子供関係なく、誰の身にも平等に求められること。
 里香子にも。九郎にも。
 誰の身にも等しく。

 だから。
 だから……

―― あなたには生きてほしいと思うのです。
          そう願うのは、酷なことでしょうか……? ――

「颯斗がいますから、あれが上手くやるでしょう」
「頼みます。私にどうにかしてやれることではないのだから」
 触れるその手を取るか、払うか。
 寄せられた気持ちを嬉しく思うのか、煩わしく思うのか。
 それをどうするかは、受け取る者の心、ただひとつにかかっている。
「こうなることは薄々気付いていたのだから、もっと早くに手を打てばよかった。私の失敗だわ」
「打つ手があったとも思えませんが……」
 九郎は言葉を濁らせる。理屈の通用するような相手ではなかったからこそ、現状の問題を引き起こしているのであって。それでも里香子は頭を振って言い放つ。
「いいえ、たとえ全面対決することになっても、子供のことを一番に考えれば行動に出るべきだったのです!」
 当人同士の実力を知っているだけに、どれほどの被害が出るか想像もつかないのだが、 ここは笑うべきなのだろうと判断し、苦笑を刻んだ。
「率直に御前、今回の一件、あなたの総括をお聞かせ願えますか?」
「女のとしては理解できます。でも、母親としては……」
 到底理解できるものではない ――
 きつく言を結んで庭先を見据える。
 知らせを受けたその時、驚くと同時に彼女らしいなとも思った。あまりにもな終わり方に、悲しむべきか、喝采を送るべきか、本気で迷ってしまったくらいに。
 それでも、誰の心にも鉤爪でかいたかのような傷あとを残して行ったには違いない。

 仕方ないじゃないですか。
 あの人が女以外の生き物であったことなど、一度たりとも無かったのですから……

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