■ 色は匂えど・・・ 3



「それで、早智は?」
「多分<奥>だと思うわ。部屋は母屋の方に用意しているのだけど、あちらにいることの方が多いのよ。落ち着くのかしらね?」
「呼びましょうか?」、との問いに「いえ」、と首を振って答える。
「このまま行ってみますよ、少し話したいこともありますし」
「わかったわ。じゃあ、お茶の準備をしておくから、ふたりでいらっしゃいな」
 里香子と別れ、ひとり道を歩いた。
 あたりは庭の体裁を取っているところもあれば、原生林が手付かずのまま残されているところもある。だから、初めての時など誤って敷地外へ出てしまったのかと思った。足元に敷かれた石畳で、ある程度を知ることができるとわかるのは、またしばらく後の話だ。
 頻繁にではないが、定期的に手は入れられているようで、前進を妨げるようなものも無い。かつて、ここに住人があった頃より整って見えるのは、管理の権限が母屋の方に移っているからなのだろうか。
 鬱蒼とするさまを愛でているふうでもあったが、単純に面倒で放置していただけでもあっただろうから。

 初めての日は、そう、迷い込んだのだ……
 別にどこへ行こうとしていたのでもないが、山一つと言われる広大な敷地内を、当て所も無く歩いていた。迷ったということは早くから気付いていたが、戻ろうにもその方角すらわからない。<わからなくなるように>予め趣向が凝らされているのだが、それはあくまで部外者の侵入を防ぐためのものであり、内部の者が惑わされていては話にならないわけだが。
 ただ、多少の弁解が許されるのなら、まだここへ来てひと月と経っていない頃のことだ。
 夏草が生茂る中、わずかばかり人の営みを感じ取ることができるそこへ足を踏み入れた。最初に目に飛び込んで来たのは、奇妙な形をした古い建物。後に七角でなる円堂と知るのだが、一見した限りでは法隆寺の夢殿が脳裏を過ぎる。
 そして、その横にあったのが、目にもあざやかな女物の薄絹。風にでも飛ばされたのか、屋根よりも幾分高いところにある木の枝に引っかかっていた。
 否、引っかかっているように見えた。
 中身があったのだ。
 それが動いたので、薄絹がはらりと滑った。のぞく白い脚。日に透ける若葉の緑を背に、緋色のグラデーションの衣を羽織った女が、ゆっくりと体を起こした。
「新参かい?」
 低いが、よく響く声が言った。
「すみません、迷ったみたいです」
 ふーん、と。答えは紫煙と共に女の口からこぼれた。煙管を携えた手を軽く立てた膝の上に置き、黒目勝ちなその目がしばし九郎のことを見つめる。
「あの……」
 やがて女は舞い降りた。
 誤って外界に出てしまったのかとも思ったが、その身体能力の高さは間違いなく同族が持つもの。背中を覆うほどにのばされた黒髪。薄絹は申し訳程度に羽織るのみで、その下にあるのは極ミニのキャミソールドレス。すらりとした白い足が目を惹く、背の高い女だ。
「仕事あげる」
「はい?」
「そこ、片付けてくれないかな?」
 煙管が指し示す先は円堂。
「急がなくていいから。私も四五日は帰らないつもりだし」
「はあ……」
「お腹すいたら中にあるものを好きに食べて頂戴」
 何故食べ物の心配まで……と疑問に感じたことの答えはこの後すぐに判明する。
「じゃあ、お願いね」
 九郎の返事を待つことなく女はひとり勝手に去って行った。
 名前も、誰なのかすら聞く間もなかったが、この家で一番の下っ端は自分だ。それだけは確かなことだと思ったので、とりあえず様子だけでもと建物の中を覗いて見ることにした。
「……」
 何をどうすればここまで荒れるのか ―――
賊に家捜しされたとか、そんな生易しいものではない……ような気がする。床はほとんど見ることができず、家具という家具から溢れ出たものが、散らばっているというか、なんというか、積み重なり地層を形成している。しかも、地殻変動を起こしている箇所も所々見られたりするわけだが。
 そりゃぁ、まあ、確かに。途中に食事でも挟まないと、とてもではないが終わらないだろう。いや、しかし待て……だいたい一日やそこらですむような話なのか? これは?

 結局それは三日間にも及んだ。
九郎には九郎でしなければならないことがあったのだが、上に事情を話すと「頼む」のひと言と共に最優先事項として処理するよう指示が下った。
 二度目に命じられた時は、うっかり箪笥を倒してしまい、何がどう決まったのか、部屋の片隅に閉じ込められるという失態をやらかす。
 三度目の時には、もう……
 放っておくとすぐに魔窟と化するので、いつの頃からかこまめに通い手を入れるようになった。先手必勝? 攻撃は最大の防御? 何か違う気もするが、当時は本当にそんな心境だったように思う。
 ただ、彼女が暗示を得意とする巫女の属性を持つ者だと知らされた時、一度だけ問うてみたことがある。
「これもあなたの術に嵌ってのことなんでしょうかね?」
 我ながら綺麗に整えられたと思う書架を前にして。
 彼女は笑って言った。
「私があなたに暗示? おかしなことを言うのね。自主的にしてくれているわけじゃないの?」
 それが本当だったのかどうか。結局は分からず仕舞いに終わった。

 まさか貴女の方が先にいなくなるなんて、思ってもいませんでしたよ……

 いろはにほへと ちりぬるを
 わかよたれそ つねならむ
 うゐのおくやま けふこえて
 あさきゆめみし ゑひもせす

 あさきゆめみし……

 ゑひもせす。


 造られた頃は“花の褥”なる名で呼ばれていたらしい円堂も、今は短く<奥>の一言であらわされる。
 人の気配があるのはいつのこと以来だろうか。
 歌う声が聞こえた。
 まだいくらか幼さを残した少年の声音。
 途切れ途切れに届くのは、聞き覚えのある旋律。聞き覚えのある言葉。
 あの人がよく口ずさんでいた……
 少年の声に、記憶の奥底で頭を擡げた甘い女の歌声が重なる。
「やあ」
 回り縁の先に見える背中に声をかけると、栗色の頭がゆっくり振り返った。父親似なのは知っていたが、涼やかな目元と、そして同じ質感を伴った白い肌に、わずかながら 面影を見ることができる。
 わずかながら……けれど確かに。
 その人の面影を留める。
「前にも一度会ったことがあるけど、憶えているかな?」
 漂わせる雰囲気に、そして向けられた視線の裏側深く潜むものに、
 これは強くなるな ―――
 そう思いながら言葉を繋げた。
「少し話をしたいのだけど、いいだろうか?」



【 色は匂えど・・・ 完 】





inserted by FC2 system