冬の金魚 2



 夢の中の早智がそう呼んだところで目が覚めた。
 パシャリ。
 再び金魚がはねる。
 あれはいつの頃だろうか。部屋の感じからすると仙台に住んでいた頃のことか。一学期の最終日、炎天下の中学校から帰ると母さんがいた。和室の窓から外を見ている。普段着の上に赤と橙がまばらに散った薄絹を羽織り、全開にした窓の桟に腰を下ろしている。
 せせらぎの音。わずかな風に鳴る風鈴の音。そして気だるげに揺れる柳の梢。
 うっとりとして、どこか遠くを見つめている横顔。空の青色をあざやかな薄絹がくっきりと射抜いている。
 あふれる色彩に、しばし目を奪われた。
「あら、早智。おかえりなさい」
「何してるのさ」
 いまひとつ状況が理解できないので聞いてみる。
「何って、暑いなぁ、と思って」
 冷房をガンガンにきかせながら窓を開け放して、その上真夏の直射日光をめいっぱい浴びているくせに“暑い”ときたか。
 何がしたいのだか、まったく……
 早智は足元に散らばる衣類を拾い上げると、無造作にソファーの上に放った。
 掃除もしなければ料理もしない。そもそも家事らしきものができるかどうかすら定かではない。
 わがままで、気まぐれで、子供の早智から見てもどうかと思うことが多い母親。それでいて時々、どきりとするほど大人の顔をする女。
 甘く、低い声が何かの音を刻んだ。
 歌を歌っているらしい。
 懐かしい声。
 懐かしい旋律。
 空の青と、薄絹の赤の、あざやかな記憶。
     早智     
 きっと、誰よりも多く自分の名を呼んでくれたであろうその人の。
 今はもういないその人の。
 あざやかな、記憶。



 素早く着替えを済ませると、クラッカー数枚をミネラルウォーターで流し込んだ。
 外は寒いだろうか? 窓の向こう側に空を鳴らす風の音を聞いた早智は、それでも花守よりましだとすることで気を紛らわす。
 次にこの部屋に戻る時は颯斗と二人か、もしかすると違う誰かを伴うことになるのか。 そう思いぐるりと見渡した部屋は、白い壁ばかりが目立ちどこまでも閑散としていた。
 あざやかな夢は、再び記憶の奥底へと沈む。
「じゃあ、行くね」
 朱色の金魚にそう告げると、早智はひとり部屋を後にした。


【 冬の金魚 終 】

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