夏の前奏曲 〜プレリュード〜 4



 九郎は早智のことを「美人だ」と言った。
 その時の颯斗の落胆ぶりは、後に花守の里で語り草にされることとなる。
「女かぁ……」
 間の抜けた声とともに放心するそれが、時代劇などに見る跡継ぎを切望する男たちのさまを思わせたのだという。
「いや、男の子だけど」
「は?」
「え? だってほら、どんな子かって聞くから」
 美人だと答えたのだ     と。
 わかっていてやったのか、はたまた天然なのか。この男の場合、それが読めない。
 事務室の奥では鷹虎と小夜がなにやら短く言葉を交している。チラリ、と一瞬だけ小夜と目が合ったから、案外颯斗と九郎のやり取りを受けてのことだったのかもしれない。詳しくはわからないのだが。
 花守塾には子供たちの世話をするために“子守り役”と呼ばれる数人の大人たちが常駐している。強面の鷹虎と、美人だが見るからに体育会系の小夜と、温和なわりに何を考えているのかわからない九郎と。現在の顔ぶれは、そこはかとなく濃い。
「なんだ、男だとわかって嬉しいんじゃないのか?」
「そりゃぁ、嬉しいけど……」
 正直、気が抜けたのだ。
 もしもここに朱音がいたなら、これを九郎の策と読み解いたかもしれない。仮に、ストレートに男だと言うことを伝えていたなら、颯斗の精神はあっという間に成層圏の高みにまで上り詰め、それはそれで厄介なこととなっていただろう。だから先手を打ったのだ     
「で? いつ来んの?」
「そうだな。どのみち休みに入ってからだよ」
 夏休み。長雨のお陰で実感は薄いが、夏季休暇はもうすぐそこにまで迫っている。
「でも、めずらしくねぇか? 今頃になって山に上げられるだなんて。普通なら山を降ろされててもおかしくない頃だ」
「まあ、その辺の事情は追々にね」
 明らかに焦点をぼかしたらしい九郎の口ぶりには、いささかのひっかかりをおぼえたものの、何はともあれ同い年の、しかも男の子なのだ。
 颯斗は期待感に胸を膨らませつつ、早智と共に訪れるはずの暑く短い夏の日々を思った。



 ところが     である。
 颯斗の期待はことごとく外れることになった。
 まず、夏が来ない。夏休みに入ったのに梅雨が明けないない。まだ、梅雨明けが来ない……
 そんな話は聞かない。前代未聞だ、そう言って項垂れる颯斗を九郎がからりと笑って諭す。
「いや、まれにあることだよ。仮に梅雨明け宣言が出ても、後々になって戻り梅雨がくる年もある。梅雨が明けない年というのもね、あるんだ。だけど、九州と四国は明けているのだからここだって時間の問題じゃないかな?」
 花守塾には本館と寮舎を繋ぐために一本の渡り廊下が設けられている。その中ほどに佇んで、颯斗はまだら雲と散り散りの青空が織り成すなんともはっきりとしない空模様をながめていた。雨の量こそ少なくなったものの、依然として雲は夏の訪れを阻んでいるように見える。
「早智は? 一緒じゃないのかい?」
「朝飯は一緒に食ったけど……部屋じゃないか? あまりほかのところでは姿を見ないし」  用でもあるのか     とたずねる颯斗に、九郎は、
「そうだね。また後で行ってみるよ」
 そう言って颯斗の横に並んで立つと、渡り廊の手すりに片肘をあずけた。

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