夏の前奏曲 〜プレリュード〜 5


「手こずっているようだね」
「え?」
「あれはこういう暮らしに不慣れだから」
 あれ、とは言わずもがな早智のことである。
「ああ……」
 颯斗は吐息にも似たなんとも不明瞭な声音で返した。
 なんというか、まあ……
 期待が大きかった分、その……
 いや、期待をしたのは颯斗の方で、ひとりで勝手に舞い上がっていたのも颯斗なのだが。
 それは確かにそうなのだが……
 早い者であれば、物心つく頃には既にここ花守での生活を始めている。颯斗は朱音と共に親元を離されていたから、自分が生まれたのだという東京の街も、そ の後移り住んだ神戸の街も、親子四人で暮らしていた頃の記憶は一切無い。だから、颯斗には花守での暮らしに抵抗もなければ、戻りたいと思う昔の生活とやら もないのだ。早智の気持を理解しようにも、まずはその方法がわからないのだった。
「ガキの場合なんかはさ。ほら、しばらくは泣くけど、結局は淋しいから寄ってくるし、遊んでいるうちに懐いてくれるだろう? でも、今回ばっかりはなぁ……」
 勝手が違う。
「そうか。颯斗のほうにも免疫がないのか」
 語尾に納得を滲ませた九郎がそう言うのを聞きながら颯斗は「だなぁ……」と答える。
「俺、誰とでも話せる自信があったんだな。でも、正直なところまだまだ未熟だって思うわ」
「まあ、そこまで自分を過小評価する必要もないと思うけどね。人のせいにしないのは颯斗の良いところだ。早智が難しいのは承知しているから、気長にするといいよ。迷惑をかけるね」
 迷惑とは心外。ただ、思っていたのとは違うから、ほんの少しだけ戸惑っているだけだ。
 ああ……
 そうなのだ。
 高嶺との日々が戻ってくる訳では、ないのだ……
 颯斗は溜息をつくと、大きく手すりに反り返って空を逆さまに見た。逆さまの山と、逆さまの空と。心なしか山の色は青く、空も広く見えるせいかずいぶんと晴れ間が多いように思う。
 この山の向こう側に夏があるのだ。同じ空が続く先に、まだ見ぬ今年の夏が     
「あと、」
 おそらくこれからが本題なのだろう。様子をうかがっていたらしい九郎が切り出した。
「明日、早智と一試合してくれないかな?」
「試合? 素手でいいの?」
「いいんじゃないかな? でも、颯斗が望むなら剣でも槍でも。一応希望は聞いておくよ。 まあ、なんだかんだ言って、みんな早智の実力を知りたいみたいだし、遠巻きにしているばかりでは何もはじまらないだろう?」
「そりゃぁ、そうだけど……で、それって、何、九郎さんの発案?」
「いや、塾頭のご提案」
「だよなぁ。好きなんだ、あの人。そういう派手なのが」
 はぁ、と深い溜息をついて颯斗はその場にしゃがみ込んだ。
 颯斗が勝つか、早智が勝つか。どちらが勝っても良い結果につながればいいが。裏目が出た場合を思うと、どうにも気乗りがしない。
 さぁて、どうしたものだろうか。

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