■ 男の子のつま先 4


「なに、また寝込んでるの?」
 翌朝、朱音から放たれたのは容赦の無いひと言。普通「具合はどうだ?」とか訊ねてくれるものではないだろうか。しかし、相手が颯斗である以上、病人でも関係が無いらしい。
「そうよ〜、俺デリケートなの〜」
「デリケートっていうより、どっかネジが一個ゆるんでるんじゃない? しょっちゅう腹下してるし、麻疹もおたふく風邪もなんか酷いことになっていたし」
「麻疹とおたふくは姉ちゃんからうつったんじゃないか……」
 うつした朱音はすぐさま治ってケロリンとしていたにもかかわらず、うつされた颯人は入院沙汰になった。実は今でもちょっとだけ根に持っていたりする。
 様子を見に来たわけでも、ましてや見舞いに訪れたわけでもない朱音は、義務だと言わんばかりに汚れ物を出せと颯斗をせっつく。おそらく小夜あたりに言われて来たのだろう。家事全般が壊滅的に苦手な朱音が、いかに実弟のこととはいえ洗い物などしてくれるはずもない。
“アタシってほら、なんでもよくできるから”
 朱音はよくそう言うが、指先を使うことに関してはやればやるほどマイナス成長を遂げるという特殊な才能を持っている。これについては本人も自覚しており、最近では「世の中の平和のため」とか嘯いて本当に何もしやがらない。
 だから姉は姉らしく面倒に思っているのを隠そうともせず、颯斗は重い体を起こし用意をはじめる。
(そうそう、父ちゃん。父ちゃんの送ってくれる服、綺麗だけど洗濯が大変)
クリーニング代が馬鹿にならないので、いつの頃からかそれを洗うのは颯斗の仕事になっていた。
「ご飯は後で早智君が持ってきてくれるから」
 今回は腹痛じゃないので、具合が悪くても食欲だけはきっちりとある。ただしなかなか熱が下がらず、冷やそうにも前髪が邪魔なので結んでみた。我ながら見事なデコっぱちで破顔したところ、
「で、アンタあのお金どうするつもりなの?」
朱音の言葉が予期せぬ角度で突いてきた。別にデコを叩かれたわけじゃない。でも、何故かデコをさすってしまう颯斗。
 えーっと、その……なんと言うべきか、その……

 あのー、地雷処理班の人たち、急ぎ到着が待たれております。まだでしょうかー?

 下手をすれば再度爆発を招きかねない。流石に今日は静かに寝ていたい気分なのだけれど、どうだろう……無理だろうか……?
「そりゃぁ、まあ……どのみち何かは買わないと。去年のやつはもう丈が短いし……」
 慎重に言葉を選びながら朱音の癇に障らないよう注意深く並べた。下手に取り繕ったり当たり障りの無いないことを言ったりすると、それはそれで怒り出すのだから、我が姉ながらその扱いは本当に難しいのだ。
「じゃあ、日曜日にでも買いに行く? 桃栗の町ぐらいまでだったら連れて行ってあげる」
 殊更機嫌が良い訳でもないところを見ると、朱音の胸中にあるもの全てが消化された訳でもないらしい。それでも向こうの方が歩み寄りを見せたのは事実であり、とりあえず世の中の常識を脇によけ、朱音という人間を斜め四十五度くらいの角度から見れば、 ひじょーに、ひじょーに解り難いが、これは 《仲直り》 の要求と考えることもできるかもしれない。
 無論、颯人に言わせれば最初から喧嘩をしたつもりなどない。けれど、そんな理屈が朱音に通用するはずも、ない。
「うん、行く」
 即座に頷いた。
「だったらその熱、さっさと下げちゃいなさいね」
 姉の不機嫌、収まりそうな気配が見えた場合、多少強引にでも収めてしまうに限るのである。


 そして十月某日。花守では既に冬の息吹すら感じる日もあるというのに、未だこの麓の町にはその気配すらなく、カラリと晴れ渡った秋晴れの日曜日、朱音に先導された颯斗と早智は共に桃栗の町を歩いていた。
 何が欲しいのかそれすらわからない。
 颯斗の危惧は、結果から言うと杞憂に終わった。八朔より開けているとはいえ、所詮は桃栗郡桃栗町、デパートの進出はまだ無く、大型スーパーの衣料品売り場と商店街の専門店をはしごしても男の子の服などたかが知れている。
「これでいいんじゃない?」
「うん、いいと思うよ」
 朱音の即決に早智が相槌を打つ。
(あのー、俺の意見は?)
 なんだろう、この、颯斗さえ口を挟まなければ全てが穏便に運びそうな雰囲気は。
「どうする? もう一軒ぐらいお店見たい?」
「いや……いい。ひと通りはそろったみたいだし」
 まあ、これからもずっとこんな状態が続くわけじゃないだろうし、次の機会が来るまでにゆっくりと好きなものを、欲しいものを考えてみるのも悪くないかもしれない。
 颯斗には時間が必要だったし、それはきっと朱音にしても同じなのだろうと思う。
 そろそろ帰ってもいい頃か。時計を確認していた颯斗が振り返った時、横にいたはずの朱音の姿は既に無かった。
 どうやら道の向こう側に知り合いを見つけたらしい。水色のカーディガンが黒髪と共に風になびいている。勢いよく駆けてゆくは、避暑地の健康優良児。
「疲れたね、なんか飲む?」
 早智とふたり、駅前広場の椅子に腰を下ろした。
「そうだな。でも、姉ちゃん戻ってからにする。勝手なことするとまたうるさいし」
 木漏れ日に目を細めつつ脱力。そんな颯人の視界をかすめていく人影があった。
「おい、早智、あれ」
 少々離れていても彼らには見える。広場の向こう側の、そのまたひとつ先の路地。時々行過ぎる車に見え隠れし、舗道を歩いている若い男は、まだ傷が治りきらないのか、顔に二三絆創膏を貼り付けていた。
 石橋慶介である。

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