■ 男の子のつま先 5


 石橋慶介 ――
 空木の婆から暗示を施してもらうために、秘密裏に里へと連れてこられた彼の姿を、颯斗は早智と共に盗み見ていた。姉を喰らおうとした男がどんな奴かと思えば、そのへんのチャラけた兄ちゃんではないか。怒りよりも何よりも、颯斗の胸に湧き起こったのは不運にも朱音などに手を出してしまった彼への哀れみである。
 加えて後、件の祭りの日、不敵な笑みを浮かべた朱音が連れの男から遅れること三歩、まるで何かを付け狙うかのようにして歩いていたという目撃情報まで得ている。実際にそれを見たのは、友人として付き合いのある本校の生徒だったわけだが、彼曰く、
 スナイパー? いや、違うか。獲物に狙いを定めた野獣……女豹?
 もうなにがなんだか。
 と、に、か、く、異様な雰囲気を放つ二人連れだったらしい。言わずもがな、過分に朱音の方が。
「横にいるあの人って、もしかしたらお母さんかな」
 ひとり打ちひしがれる颯斗の隣で、早智が言った。
「そうじゃないか? 年齢的にみても。なんか案内してるって感じだな。この辺に不慣れなのかな、あの女の人」
 母親はこの町の人間じゃないのだろうか? そういえば慶介の出身は埼玉かどこかだと聞いたような記憶もある。道には不慣れだが、着物は一部の隙も無く着こなす、楚々としてどこか儚げな女性。淡い藤色に日傘の白が美しく映えている。
「なんか嬉しそうだな、あいつ」
「久しぶりに会ったんじゃないかな? そんな感じ」
 ふと、何かがひっかかるような気がして颯斗は考え込んだ。下手をするとすぐにでも霧散しそうなそれを、無理矢理手繰り寄せ、繋ぎ合わせて答えを導く。
「そうだ、姉ちゃんに似ていないか? ほら、妙にかしこまって猫かぶりしている時のアレ」
 おそらくは父親の理想を具現化したのであろう、そこにあるのは静謐なるイメージ。夏草かおる高原の、白露の舞う肌寒い朝。木々の合間に見え隠れするのは、流れる黒髪、白い柔肌。
 そういった少女の時間をぐーっと推し進めたかのような、清楚なご夫人。慶介の傍らにいるのは、些か古風だがそんな女性だった。
「見た目に騙されたんだな」
 颯人は呟く。
 多分、それが朱音に興味を持った理由……
 最初は純粋なる好意だったのではないだろうか。憶測ながら思う。朱音は恋愛感情の有無を否定したが、そうではなくもっと、言葉にするならそう……憧憬と呼ぶにふさわしいもの。
 彼は取り戻したかったのだ。あの暖かくもまろやかな時間を。子供の頃、確かに《彼女》から与えられたはずのそれを、彼は《彼女》に似たひとりの少女に求めた。彼女と共に今一度得たいと思ったから……
 颯斗にとって母は遠いが、遠いが故に、慶介の気持ちはわかるような気もする。彼もまた母親との時間をそれほど多く持てなかったのではないか?

 夢を、見たのだ……

「そりゃあ無理だわ。だってうちの姉ちゃん、そーいうタイプじゃねーもん」
 勘違いは……悲しいかな悲劇を招いた。
 やがて、現実が垣間見えると共に彼は失望していく。遠巻きに見るだけでいれば良かったものを、間近に置き手に入れようとしたがために絶望を味わう。女の子の本性、というより朱音の本性。
―― うわっ、大口あけてたこ焼き食ってる! ――
 流石の颯斗も決定打がそこにあったことは知らない。
 勿論、彼、石橋慶介も自分の理想とするような女の子、言わば大和撫子が絶滅種にも等しい存在だということは理解している。
 けれど、なんというか、こう……
 もうちょっと、その……嗚呼!
―― せめてたこ焼きはフーフーして食べるくらいの恥じらいを! ――
 憧憬が儚くも散った後、彼の内で頭を擡げてきたのは食欲。朱音は色々な意味で慶介の好みど真ん中だったわけだが、当初は好意の方が食欲に勝っていたため事なきを得ていた。けれど、そのバランスが崩れてしまえば当然彼は衝動を押さえ切れなくなる。
 絶望が男を食人鬼に変えた。
 食い意地とガサツさが災いして食われそうになった女、朱音。
 それが事の顛末。
「言わないほうがいいんだろうなぁ、こういうのって」
「だね」
 早智からも賛同の声が返った。

 朱音の立ち話は続いている。再び熱が出るといけないからといって、めずらしく早智が自販機に走ってくれた。
 明日は雨になるかもしれない……
 それでも、ちょっとした幸せ気分を感じていることは、秘密だ。
 山の中腹にあるのがこのあたり唯一の公立高校。余程のことが無ければ、二年先にはそこに通っていると思う。その時には何を考えているのだろうか。何かが変わっているのだろうか。行く道を、見出せているのだろうか?
 今はまだ、わからないけれど。
 でも、男だという。
 少数派のハンデと引き換えに人より優れた力も持つ。
 ならばいつかこの足で大地を蹴った時、思いきり遠くへ飛ぶことができるだろうか?

 散々雑談に花を咲かせた朱音は、戻ってからも勢い衰えぬまま、今別れたばかりのクラスメートたちのことを話していた。
「可愛いでしょう。肌なんて、こうきめが細かくてすべすべで。アタシはあの右端にいた子の足の形が好きなのよ」
 初々しさがどうだ、発想は稚拙だが可愛いだの、まあ、それは日頃から里の高齢スペシャリスト達と接していれば、多少ものの見方に幅ができてもおかしくはないのだが。
 しかし朱音よ、人はそういうのをオヤジというのであって……
 颯斗は早智に問う。
「お前の母ちゃんもあんなだったのか?」
「え?」
「でも、何にも出来ないところが似ているってさ、やっぱり料理とか掃除とか、家事全般が全滅だったってことか?」
 学習の応用が生かされなかったのは、やはり病み上がりのせいだろうか?
「ご愁傷様」
 無表情が告げる最終宣告。
 颯斗の横っ腹に、朱音の回し蹴りが見事に決まった。





【男の子のつま先 ・ 完】

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