花守綺譚



――プロローグ――


 梢の隙間からのぞく空は既に夕刻の色を滲ませている。
 時計を確認した母が何の躊躇いも無くアクセルを踏んだ時、正直早智は驚き、隣に座る彼女を見つめた。特に変った様子はない。いつもの通り人形を思わせる取り澄ました横顔があるばかりだった。
 時間になっても戻らなければ逃げるよう、父にしてはやや厳しい口調での言葉だったような気もするが、あの父が戻れない状況など想像することすら叶わず、刻一刻とその時が近づいてきても、周囲を占める重苦しい空気を煩わしく思うだけで、結局、母が判断を下すその時に至るまで、早智は自らの身に起ころうとしている事態を正確に把握することができないでいた。
 無意識が、意図的に避けるようにしていたのかもしれないのだが。
 どれだけ走ったのかは覚えていない。けれど、しばらくして車は止まった。
後に続くものも、先から来るものも無い、鬱蒼とした樹海の中を行く道。陽はすでに西へ傾き、茜色の空があたりを支配している。そう遠からぬうちに世界は黄昏へと沈み行くのだろう。ただ、不気味な沈黙だけが横たわっていた。
 早智にはわからないことだらけだった。母が父を置き去りにし、逃げるという選択をしたことも。そして、一度これと決めた彼女が、今になってそれを止めようとしていることについても。
 ただ、ゆっくりと踏まれたブレーキだけが、彼女の逡巡を表していたのかもしれない……
「ごめん、早智。私行けない」
 小さな声が、まるで囁くかにして言った。
 何を言われているのか――それが一体何をあらわしているのか――理解するのには少しの時間を要した。
 引き返そうというのか。けれどそれは……
 父が戻らないということは、そういうこと、なのだ。だからこそ、母も指示通りここから立ち去ろうとしていたのではないか。戸惑いはわかる。早智自身、まだそれを事実として受け入れることができないでいる。事実も何も、まだ何も目にしていない、何も耳にしていない。ただ父が戻らないという、事実としてあるのはただそれだけ。
 けれど。
 ただそれだけのことが、何よりも雄弁に物語っている。
 なのに。
 それなのに。
 戻ると言うのか……
「何……言って……」
 縋るような気持ちで次の言葉を待ったが、彼女は意を決するかのように再度アクセルを踏み込み、少々強引な運転で車を脇道へと入れた。
「ここで待ってなさい。多分、じきに誰かが見つけてくれる。動いたらダメよ。あの人たちが起きても、騒いだりせず、じっとしているよう言い聞かせなさい。いいわね?」
 矢継ぎ早に言い置き、すぐさま車を降りてしまった母親を追い、早智も外へと出た。過分に湿り気を帯びた大気が肌にひたりと貼り付く。
「待って」
 何を考えている?
 何をしようとしているのだ、この女は。
「一緒に行く」
「いいえ」
 制止を命じる声が早智を止めた。彼女の声には力があり、それに捕らわれるとまるで縛されたかのように動けなくなってしまう。
 すらりと伸びた背。背の高い女だ。追い抜くにはまだ数年の歳月が必要になるだろうと思われた。短く切り揃えた髪から白い首筋が覗いている。
「行って、どうするのさ……」
 振り返れ。
 拳を硬く握り締めながら、そう思った。
 振り返れ。
「わがままよ。私のすることなんて、みんな。そうでしょう?」
 わかっているわ、と言わんばかりに、よく透る声が返った。
「でも、これだけは昔から決めていたの。だから、」
 だから行くのだと。
 自分を置いて、行ってしまうのだと。
 振り返らぬまま……
 一方的に叩きつけた決別の後、一度として早智のことを見ないままで、
 行ってしまう――
「勝手だよ、そんなの」
「わかってる」
「だったら!」
 けれど、軽く頭が振られ、その仕草とは対照的に頑ななまでの拒絶を示されるだけだった。
「――……なさい」
 それが最後の言葉。
 白い足が駆け出し、薄暗い樹海の中に消えた。程無くして早智は自由を得たが、その時にはもう視界に彼女の姿を捉えることは出来なくなっていた。


 空が赤かったのを覚えている。太陽が溶け出したかのように滲み、空の青と混ざり合い溶け合って、まるでこの世の終わりが来たのではないかと思わせるほどの異様。
 それを見上げながらひとり立ち尽くした。どうすることもできず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
 春が解けて消え去り、日本列島が梅雨に呑まれた日。

―― 早智………… ――
 最後に残された言葉。
 そこに込められていたはずの思いは、今もまだわからないまま……






花守綺譚 第三話

〜 咲くや、この花 〜



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