花守綺譚
 〜咲くや、この花〜 12



 女の子の泣き声が響き渡る。小夜が胸に抱き、なだめつつすかしつつであやしているが、泣き止む気配は一向に見えない。
「敏感な子だな」
 寮舎の二階から庭の様子をながめていた高嶺がこぼした。
「あの子はちょっと事情があるから。思い出してるんじゃないかな?」
「事情?」
 和馬の答えに疑問符を打ち、彼は顔を横に向けると、隣に立つ少年に仔細を求める。
「どうにか逃げ切れたんだけど、ここに来る前に襲われたことがあるらしいよ」
 はあん、と納得の声を返し、鼻先で笑った。
「そりゃぁ、忘れろっていう方が難しいだろうよ」
「そうなの?」
「肌がな、こう泡立つ」
 そう言って差し出されれば、目は当然のこと腕に向く。けれど、褐色にして滑らかなる肌には、特にこれといった変化を見る事は出来なかった。和馬はなおも目を凝らしていたが、高嶺は知ってか知らずか、それを説こうとはせず言葉を続けた。
「てめえが食われそうになる感覚だ。一度味わったら最後、そう簡単に忘れられるものじゃないさ。動物ならな、本能的に恐怖を覚える」
 颯斗は和馬と共に高嶺を見上げた。彼は再び庭の二人に興味を戻したらしく、小夜と泣き止まぬ幼子、伊都世のことを見ていた。
「確かに……異様な雰囲気ではあるよね。颯人君にもわかる?」
 釈然としないながら、それについては同意だと和馬が頷く。
「ああ……なんとなくだけどな」
 颯斗は答えた。
 わかる……
 空気が何かを伝えようとしている。いや、獲物である自分たちの血が、本能として捕食者の気配を感じ取っているのか。感情をあらわにしているのは伊都世だけだが、誰もが皆、大なり小なりの不安を、心の奥底に抱えているのだろう。
「でも、全く動じてない人もいるみたいだけどね」
 ほら、あそこ……と目で告げる。颯斗が和馬の視線を追うと、廊下の先を歩いているのは、誰あろうか早智。
「当然だろう。あいつの体にいったいどれだけの血が流れていると思うんだ」
 高嶺の言葉にもう一度振り返った時、既にそこに早智の姿を見ることはできなかった。

* * *


 何にも知らないんだよな、俺――
 改めて思った。
 高嶺が言うところの早智の"血"――それについてすらも、颯斗は詳しくを知らない。興味が無いというのではないが、本人が語らないものを根掘り葉掘り聞く気にもなれず、ましてや好奇心にまかせ、土足で踏み込むことが許されるような問題でもないと思っていた。
 別に、高嶺が早智のあれこれを知っているのも、早智の方から率先して語ったというわけではないのだろう。
 わかっている。わかってはいるのだが、胸のあたりが、こう……ざわめく。
 寂しい……
 そう、寂しいのだ。
 それが子供じみた我侭でしかないのも理解している。十五にもなろうかというのに、そんなことを言っているようでは、下の子たちに対して示しがつかないではないか。
 けれど、痛む心は如何ともし難く、執拗なまでに颯斗を苛む。
 ダメだな、俺――
 こんな感情を持て余しているようでは、ダメだ。
 重苦しい溜息がひとつ、こぼれた。
 最近は食事もバラバラに取ることが多い。下手に待っていたりすると、逆に気を使うと言われてしまったからなのだが、早智の食が進んでいないことは気になっていた。今日は朝も昼も食堂に姿を見せていないはずだ。
 状況が状況なだけに、行き場の無い子供たちのざわめきが室内に溢れている。せめて食事ぐらいはと、婆たちと小夜で子供たちの喜びそうなメニューを並べてくれていたが、誰もが皆、気もそぞろというのが正直なところのようだ。
「嫌いなの?」
 手付かずでいる李を問われ、それを二つ、颯斗は向かいの子供たちに手渡してやった。
「やるよ。食いな」


 そもそも早い食事だったし、今は一年のうちで一番日の出ている時間が長い頃であるから、夕食後外に出てもまだ辺りは充分に明るさを残している。
 どうやら何処かへ行っていたらしい早智と、うっかり顔を合わせてしまったのは、寮舎の角を曲がり裏庭へと出ようとした時。
 何も言わず、すれ違ってしまうこともできたのだが……
 当然のこと、向こうはそうするつもりだっただろうし、それを願っているのもわかってはいたが、理性よりも先に感情が動いた。
「夕食、ちゃんと食えよ。今からでも遅くないって」
「食べてるよ。いちいち心配してもらうようなことじゃない」
「嘘つけ。痩せたぞ、お前」
 早智の目が鬱陶しげに逸らされる。颯斗は一度喉元で詰まった言葉を、半ば強引に押し出した。
「どうしたんだよ、いったい。何があったっていうんだ」
 怯む気持ちはある。けれど、それすらも追いやってしまうものが、颯斗を内側から動かす。
「何もないさ、別に」
「何もないはずがないだろう。お前、おかしいって、本当」
「おかしいのは颯斗の方だろう。どうして人のことがそんなに気になる。放っておけばいい。それで済むような話じゃないか」
 どうして――
 そんなものに明確な理由などいるのだろうか? 
「人を心配するのに理由なんてないだろう」
 心が騒ぐからだ。
 体の奥底から溢れたものが、堪えきれず、流れ出て、それを問う。
 どうした? 何故泣いている? どこか痛いのか? 何か悲しいことでもあるのか?
 いてもたってもいられなくなる。
 だから――だ。  けれど、きり、と双眸を細めた早智は、きつく引き結んでいた口に、鋭い言葉を乗せてきた。
「知ってどうするっていうのさ。聞かれれば答えるかもしれない。でも、それをしたところでどうなる? 聞けば満たされるから? 疑問を抱えたままでいるのはもどかしいから? それで興味を満たそうとでもする訳?」
「違う!」
 颯斗が声を上げる。
「違う。そんなんじゃない。違う……」
「違わないよ」
「早智!」
「体が違えば、同じ痛みでも感じ方が違う。まして心なんて尚更だろう? それを言葉に置き換えたところで、いったい何がわかるっていうんだ。その程度のことで人の気持ちを理解しようだなんて、そんなことが出来ると思っていること自体、思い上がりだ。興味本位以外の何ものでもない」
「違うって言っているだろう!」
 堪えきれず叫んだ。
 金色の光がはじけ、散る。早智は眩しそうに目を細めた。
 世界が黄昏に沈もうとする中、ただ颯斗の体だけが、自らを光源として浮かび上がっている。まるで陽炎のように立ち上る淡い揺らめき。開いた手を目の前に並べ、しばらくの間、無言でそれを見ていた。信じられぬものを見るかの眼差しが当惑を語る。
「悪い……そんなつもりじゃないんだ、ただ……」
 体が小刻みに震える。両腕を引き寄せ、己が身を抱いた。
「俺……」
 颯斗は後ずさるほかなかった。
 持て余しつつ、どうにか踏みとどまろうとするも、理性は指の間を滑る砂の如く零れ落ちてゆく。
「……」
 わななく唇では言葉を刻むことすらままならない。
 力なく頭を振ると、早智をひとり置き去りにして、颯斗は夜の帳に姿を消した。

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