花守綺譚
 〜咲くや、この花〜 18



 その日は久しぶりに早智と共に夕食を取った。ガランとした食堂で、三人他愛もない言葉を交わしながら宵のひと時を過ごす。昨日までの刺々しさが嘘のように、早智は、終始穏やかな表情を浮かべて、颯斗と和馬の会話に耳を傾けていた。
「機嫌なおったみたいだね。良かったじゃない」
 和馬が隙を見てささやく。けれど颯斗は、何故だか釈然としない気持ちを覚えて、素直に頷くことができなかった。
 おやすみを言い合って別れた後も、その違和感は残り続け、以前のように気軽に早智の部屋へ乗り込むことも出来ずにいた颯斗は、胸騒ぎを抱えたまま重苦しい時間を過ごしていた。
 何を考えているのか。
 相手の異変には気付いても、頭の中までは読み取ることができない。もどかしさが不安となって蓄積を重ね、やがて居ても立ってもいられなくなると、颯斗は部屋の戸を開いた。
 外の空気でも吸えば、頭を冷やすことが出来れば……少しは落ち着けるかもしれない。
 廊下を行き、裏庭に出て空を見上げる。群雲が細切れにたなびいていたが、月も清かで良い夜だった。雨に洗い流された透明な空気が心地いい。体を浸すようにし、ひとり瞑目せんと瞼を伏せた、その時。
 何かが視界の端をかすめ、颯斗はそれを追い振り返った。
 早智!
 細身が夜の間を駆ける。
 どこへ行くつもりだ?
 行ってしまうというのか?
 突かれたかのように追う。
「早智!」
 呼び声は届いたのか否か、一顧だにせず早智は駆けて行く。
 ダメだ、追いつこうにも、もう……
 裏山に入ろうかという時には、既にその姿を見失っていた。
 行ってしまう。
 行ってしまった。
 止める間もなく、
 早智は……
「どうかしたのかい?」
 騒ぎに気づいたのか、はたまた非常時のため偵察にでも出ていたのか、立ち尽くす颯斗に九郎が声をかけて来た。
「何だ? どうかしたか?」
 沢に続く石段を上ってきたのは高嶺。横には朱音の姿もあった。
 颯斗は状況を説こうとするも、上手く言葉にすることができない。自分が何を不安に思っているのか。そして、今、何が起ころうとしているのか。
 ただ、早智が行ってしまった……
 さわりを聞いた九郎は、「まったく」、とこぼし、
「手間をかけさせてくれるねぇ」
 ひとり、早智を飲み込んだ黒い山を見上げた。
 彼が動いたので颯斗も続こうとする。けれど、それは高嶺によって遮られた。
「お前の足じゃ無理だ。待ってろ」
「でも!」
「心配するな。ちゃんと連れて帰って来てやるから」
 高嶺は九郎を追い、颯斗は朱音とふたり、その場に取り残された。
 沈黙が姉弟の上に降る。
 やがて、先に動いたのは朱音だった。
「あたし、帰るわね。疲れたし、もう寝る。アンタはどうするの? ここで待っているつもり?」
「うん。待ってる……」
 それ以外の何ができるというのだ。
「そう」
 朱音は短く言うと歩き出した。が、数歩行ったところで立ち止まり、わずかに振り返る。
「多分、帰った後が正念場だとは思うけど……まあ、頑張りなさいな」
 その言葉を受け、颯斗が顔を上げた時、姉は再び歩き出したあとだった。

* * *


 十三になる春まで、両親と共に日本各地を回った。子供は育てるべき機関に託すのが一族の仕来りだったが、型破りな母にそんな理屈が通じるはずもなく、彼女はただひとりの息子、早智を手元に置き続けた。
 父親は子供の育ち方について、彼なりに思うところがあったようだが、母親の性格を知り尽くしていた彼は、早いうちに諦めたのか、結局多くを言うことはなかった。ただ、父が妥協するに至った背景には、早智が《覡》の力を持って生まれてきたことが関係しているのだと、まだ花守に来て間もない頃、朱鷺子婆がそれとなく教えてくれたことがある。
 学校は転校の繰り返しで、友人と呼べる者など皆無にも等しい状態だったが、父親の仕事仲間の存在もあり、また自身の性格も手伝ってか、寂しいと思ったことは意外なほどに少ない。
 いつか終わることを知りながら、けれど永遠に続くかとも思われていた流転の日々は、ある日突如として終止符を打たれることになった。
 両親は帰らず、早智は、彼らが救い出した同族の二家族と共に、夕闇迫る樹海に取り残された。
 あの日の空は、まるで世界が断末魔の叫びを上げたかの如く。ねっとりとした朱色は、見る者の目に畏怖すら抱かせる。風が止み、生ぬるい空気が淀んでいた。雨は無かったが、本州全土が梅雨に覆われたという六月の夕暮れ。
 早智の世界は、音も無く壊れ果てた。
 帰らない二人を待ちながら、彼らが築いてくれた世界が崩れ去るのを、ただひとり感じていた。
――ごめんね、早智。我がままだと言ってくれていいから――
 知っていたさ、あんたが我がままだということくらい。
 親とはいえ所詮は人間だと。大人なんて、結局は子供の延長線上でしかないのだと。
 それに早くから気付くことになるくらい、あんたは母親としても大人としても無茶苦茶だったじゃないか。
――恨んでくれたって、いいから――
 早智はひとり駆けた。暗く、道無き道だが、彼の足を持ってすれば、そこを行くのは然程難しいことではない。
 後ろ手の斜峰連山では、今、この時も《譲葉》の狩りが続けられている。あれがひと通り終われば、外に向けられている目が再び里の中に帰ってくるだろう。しばらくは警戒が強まること必至。ならば動くには今しかないと思った。
 群雲に見え隠れする月。薄明かりに背を押されるようにして走った。とりあえず、山を降りなくてはいけない。花守の手が届かないところに行かなければ……
 あの女。
 あの映像の中にいた、臙脂色の日傘を持った女。
 あの顔は、母だ。
 立ち姿。首筋から肩にかけてのライン。そしてあの口元。
 あれはどう見ても、何度見ても……
 別れた時に比べ、随分髪がのびていた。それだけの時が経ったのだという証か。
 生きているのか。
 生きているのなら何故、
 会いに来ない?――
 早智の所在など、掴もうとすれば容易にできるはずだ。それでも姿を見せない理由とはいったい何か。そもそもあの状況で生きていたというなら、それは……
 あの映像が記録されたのは、おそらくふた月近く前のことだろう。今行ったところで何がわかるという保障もない。けれど、いてもたってもいられなくなった。
 身勝手な女。人を振り回すだけ振り回しておいて、捨て去った後もなお、まだこうして早智を動かそうとする。
――恨んでくれていいから……――
 それができるのなら、これほどの思いに苛まれたりはしない。
――あなたも見つけなさい。この命、かけてもいいと思えるものを。自分の命、かけてさえ惜しくないと思えるようなものを――
 勝手なことばかり言う。
 我がままで、どうしようもなくて、それでいてどこまでもあざやかな印象を残す、厄介なことこの上ない女。
 それでも、
 生きているなら。
 生きているというなら……


 後ろに気配を感じたかと思うと、次の瞬間それは上を飛び越えて前に出た。ひらりと舞った体が四つに割れ、反転するうちにまた、更に二つに別れる。
 咄嗟にかわそうとするも、相手の動きには死角が無い。一瞬にして行く手を阻まれたことを知る。
 後から追いかけてきて、早智の足を追い抜く。尚且つ、これだけの技を仕掛けることが出来る者など、花守にはひとりしかいない。
「どこへ行くつもりだい?」
 明確な意思を持った影のひとつが、やがて見知った男の姿を結んだ。
 早智が名を呼ぶ。
「九郎!」

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