花守綺譚
 〜咲くや、この花〜 19



 深き山の懐で二人、対峙する。朽葉を踏み、早智は上段に立つ九郎を睨めつけるも、漆黒の梢を背に、彼は余裕の表情で見下ろしてくる。
 父亡き後《譲葉》のナンバー2は事実上この男だ。挑むのは自由だが、ここで彼と戦い、なおかつ越えて行くだけの力は、残念ながら今の早智にはまだ無い。
「非常事態なのはわかっているだろう。若気の至りは誰にでもあるが、それを許す、許さないはまた別の話だよ」
「確かめたいことがあるんだ」
 語気を強め、言った。
 譲るつもりは無い――視線を逸らぬまま、それとなく隙をうかがう。しかし、今一度気配が迫ったかと思うと、後を追ってきたらしい高嶺が、九郎の正面に立ち、挟み込む形で早智の背後を取った。
 短く舌打つ。苛立ちが吐息となりこぼれた。
「あの映像のことを言っているのかい? ならば始めから言っておこう。あれは、違う」
「何故!」
 疑問が口をついた。「どうして知っているのか」ではない。そんなことはいい。どうでもいい。それよりも何故、
――どうしてそう言い切ることができるというのか――
「わからないだろう、そんなの」
 早智はかぶりを振って食い下がる。
「わかるさ。だから言うんだ。違う」
 この男の自信はいったいどこから来るのか。
 月明かりが映す彼の顔は、穏やかなようでいて、ぞっとするほど冷たくも思える。真意を読もうとし、目を凝らせば凝らすほど、量りきれないでいるもどかしさがつのるばかりだ。
「だったら逆に聞こう。仮にあれが、お前の母親だったとする。だとすればどうだ。生きていたのだとすれば、あの状況でのことだ、それが何を意味しているのか、わかっているのだろうね?」
 早智は言葉を詰まらせると、忌々しげに九郎を見上げた。
 生きていたというなら、あの一幕を経て、なおもその命が失われていないというのなら、既にあれは……
 あれは……既に母の姿をした別の生き物なのかもしれない。
「ならばどうする? お前の母親が敵の手に落ちていたのだとすれば」  九郎はなおも問うた。早智の逡巡を知りながら、いや、知っているからこその詰問にも思えた。
 雲が月にかかり、そして抜ける。わずかな風が漆黒の木々を揺らし、早智と九郎の間を渡った。
 星があるとすれば。
 その白い肌に再生の証があるとすれば。
 同胞を喰らう者へと転じた黒い証がある。
 だとすれば……
 どうしたらいい?
 そう思う気持ちは最初からあった。けれど、どれだけ考えを重ねようと、依然として答えは出ないままでいる。
 母は……あの女は危険だ……あの女の持つ力は……
 仮にそれが天敵の手におちていたとすれば、こちら側にとってどれだけの脅威になることか。
 どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい?
 頭の裏側で、正論がまるで自らを主張するように明滅を繰り返している。
 どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい?
 わかっている。わかってはいるのだ。
 でも……
 早智は頭を振る。何を正しいとするか、答えを出すことを否定するかのように、きつく瞳を閉じて、拳を握り締めた。
「もしも」
 やがて、それを見届けたかにした九郎が口を開いた。
「もしも、彼女が既に"星持ち"になっているのだとしたら、俺がもらうよ」
 穏やかな声が告げた。
 伏せていた視線を上げると、白く浮ぶ彼の顔は、微かに笑んでいるようにさえ見えた。
「どうせお前は落とせやしないだろうから、俺が狩る。二十年前は手に入れることができなかった女だ、今度こそは間違いなく落とす」
 自分の獲物だ――と、言い切り、真っ直ぐな眼差しを向ける。そこに迷いの色などは見られない。早智は何かを言おうとして、口をつぐんだ。母親を殺すと言う男に対し、言いたいことも問いたいこともあったはずだが、ただ感情が一塊になって重く圧し掛かるだけで、結局何ひとつとして形にすることはできなかった。
「けれど」
 静かに言って九郎は、不意にその表情を崩した。
「そんなことにはならないだろうね。あれは……彼女は、お前の父親以外にそんな自由を許す女じゃないさ」
 月明かりが映す彼の顔に、どこか自嘲にも似た笑みが滲んだ。
 幾重にも絡み合う運命の糸を、白い指先が他愛なく捌いてみせる。この世の理すら操るかに見えた、魔女のような女。
「しくじると思うかい? 思わないなだろう? だから違う。殉ずると決めたのなら確実にやり果せている」
「でも!」
「違う」
 九郎の声が重なる。
 違う。
「あれは違う。あれは譲葉……いや、青桐未散じゃない」
 三たび言われ早智は、瞠目すると共に天を仰いだ。


 散らぬ花だと思っていた。
 幕切れはあまりにも呆気なく、実感も伴わぬまま、まるで陽炎か泡沫の如く消えた。
――見つけなさい、早智。あなたも……――
 自分勝手な言葉だけを残し、ひとり去った女。


 会いたいと思った。
 生きているならもう一度。
 どんな姿でもいい。
 会えるのならもう一度。


――会いたいと思った――


 ただ、それだけ。

 それだけ……

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