花守綺譚
 〜咲くや、この花〜 2



 ひらいた ひらいた
 なんの花がひらいた
 ひらいたと思ったら
 いつの間にか……


(1)
 少しの間眠っていたようだ。ここのところ寝付けない日が続いていたため、ふとした瞬間に意識を持っていかれてしまうことがある。浅い眠りは夢を伴うから、うつろうつろ、おそらくは過去の記憶をなぞっていたのだろうが、いつか見た日の光景が細切れとなって瞼の内側で明滅を繰り返していた。
 図書館の最奥を陣取り、人待ちをはじめて一時間半。時計を確認すると早智は、上体を起こし気だるげに腕を伸ばした。いつの間にか雨は上がっていて、窓の外の空は、先に見た時より幾分か明るくなってきているようだ。
 颯斗の補習はまだ終わらないらしく、駆け寄ってくる足音は気配すらうかがうことができない。放課後の校舎は、早智ひとりを包み込み、ただ閑散と静寂に身をゆだねるばかりである。
 数学が如何ともし難い――
 他には問題が無いのにその一点だけが壊滅的状況に陥っている。春に担任が替わりそれが数学担当の教師だったことから、颯斗には現状を打破すべく特別授業を受けるようにとの命が下った。中学も三年。望もうが望むまいが、彼らも受験生と呼ばれる時期にさしかかっている。去年とは違う……それが最初からわかっている一年がはじまり、早二月が過ぎようとしていた。
「帰るか」
 早智はひとりごちた。
 何も十やそこらの子供ではないのだ。今さら一緒に帰らなければならない決まりがあるわけでもないだろう。生憎、性格的にもそういう感傷は持ち合わせていない。何か言われるようなら、それはまたその時になってから考えればいいことなのだから。
 放ってあった鞄を手にすると、躊躇うでもなく立ち上がった。

 分校から花守への道はひたすら上りの道を行くことになる。歩くのには少々距離があったが、彼らの足を持ってすればそう難しいものではない。ただ、道は最低限の維持しかされておらず、粗いアスファルトと頭上をぎっしり埋める木々、そのふたつで織り成す光景は、昼なお暗い天然のトンネルを作り出していた。
 延々と続き、初めての者など――もしやこのまま異界へでも通じているのでは……?―― と言い知れぬ不安に心が泡立つ頃になってようやく、《花守》と書かれた、まるで「気付いて下さらなくても結構」とでも言わんばかりの、申し訳程度に据えられた道標を見ることができた。勿論、それがあるからといって、その脇道の向こうが異界に通じていないという保障など、どこにもありはしないのだが。
 道は勾配を増し、更に蛇行も増す。人心を惑わすかのようなひと時を経て、ようやく空が開けたかと思うと人里が顔を覗かせた。
 花守――
 某製薬会社の研究所を隠れ蓑に、伽羅を名乗る長寿の民が隠れ暮らすところ。対面にそそり立つ星神山の大岳からは、所々白い靄が湯立つかの如く立ち上っている。
 まとわりつく外気に息苦しさを覚え、早智は深く吐息すると、首に手をのばし襟を緩めた。湿気は……この季節は苦手だった。不調の理由はわかっている。肌が、いつかの日のことを覚えているのだ。きっと、どれだけ時が過ぎてもその感覚を忘れることはないだろう。苦手だという意識は、多分この先も残り続ける。
 ずっと……消えて無くなることはないのだろう。
 あの人が容赦なく刻み付けて行った――
 空が赤くないのがせめてもの救いか。無意識のうちに止まっていた足を再び動かし、早智は雨上がりの道をひとり歩いて行く。

* * *


「もしかして、置いていかれた――か?」
 いつもの場所に姿はなく、まして荷物までも無いとなれば、答えは簡単。
「置いていかれたんだな」
 確かめるように言い、颯斗は「さて、」とあらぬ方へ視線を彷徨わせた。
 別にひとりで帰れない訳ではない。小学生の頃から通い慣れた道だ。ただ、なんというかその、置いて行かれたという事実に一抹の寂しさを覚えてしまっただけのことだ。
 必ずひと言ふた言あるのだが、そうやってチクリとやられた後、早智と共にちんたらと帰る、それが颯斗の日常であり、自分はその代わりばえのない日々を大切に思っているのだと、ひとり立ち尽くす図書室の片隅で考えてみたりする。
「まあ、そろそろ飽きる頃だとは思っていたけどな」
 溜息と共にこぼしてみたが、それでも何日かは待っていてくれていたことを思えば文句は言えない。すべては終わらない補習のせいであり、意味不明の使命感に燃えている担任教師のせいである。そして、もう一週間近く逃れられないでいる颯斗自身のせいでもあった。
 それもこれも、全て数学というものが存在しているからが悪いのであって……
「別に、因数分解ができなくたって、死にゃあしねぇよ」
 帰り際そうこぼすと、担任教師はまるでこの世の終わりが来たかのような顔をしてくれた。
 俺の現状ってそんな崖っぷちですか――?
 とはいえわからないものはわからない。基本文系なのだ。きっと、頭の構造そのものからして違う。先天的に数学に対する因子を持っていないとか、多分そんな感じで、この場合今更どうこうようしようと足掻いてみても、得られる成果なんてたかが知れているものと思われる。手遅れなのだよ、無駄な努力。国語も英語も問題ないのだからそれで勘弁してくれというのが颯斗の本音だったが、早智はバリバリの理系で、姉の朱音もどちらかというと得意な方ときている。颯斗の周囲に彼の気持ちを理解してくれる者は、今のところいないのだった。
「帰るか」
 急ぎ駆けていけば案外まだ追いつけるかもしれない。わずかな希望を胸に抱き、颯斗は無人の廊下に姿を消した。

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