花守綺譚
 〜咲くや、この花〜 20



 人の気配にはっとする――足音に顔を上げると、暗い山の隙間から九郎と高嶺、そして早智の三人が下りて来るところだった。早智は颯斗を見て戸惑うかの素振りを見せたが、九郎に何ごとかを耳打たれ、ひとり足を止める。
 平素と変ることなく柔らかな笑みを浮べた九郎が、右手での合図ひとつを残して、高嶺と共に去っていった。
 二人取り残され、それぞれで立ち尽くしている。早智の視線は依然として伏せられたまま。
――まあ、頑張りなさいな――
 朱音の言葉が……気だるげに、そしてどこか面倒くさそうにも聞こえた去り際の言葉が、脳裏をかすめる。
 早智に歩み寄った颯斗は、わずかな逡巡の後、相手の背中に自らの手を回した。払われるかとも思ったが、意外なほど素直に受け入れた早智は、力無くその体を颯斗の肩に持たせかけた。
 相当に堪えているようだ。
「こんなになるまで何してんだよ、お前」
「ごめん」
 呟くように言われ、颯斗は空いていたもう一方の手も早智の肩に置き、抱きとめるように添えた。
 憤ることが無かったわけじゃない。理解してもらえずに、悲しく思ったこともあったはずだ。けれど今はそんなこと何ひとつ浮んでは来ない。
 ただ、強くなりたいと思った。
 ゆるがないでいられるよう。
 早智が辛いのなら、その痛み薄れるまで支えてやることができるように。
 少しでいい。
 少しずつでいいから。


――強くなりたい――

* * *


「何もあの人だって、最初から死ぬつもりだったわけじゃないと思うよ」
 高嶺と連れ立って歩きながら、九郎は語った。
「わずかでも可能性があるならそれにかけようとするはずだから」
 最後の最後まで、そうするつもりでの行動だったのだろう……と。
「変に遺言めいたことを残したりするから、早智が混乱したんだ。まあ、そのあたりが、らしいといえばらしいのだけどね」
 ふーん……、と頷いたのは高嶺。
「俺は結局会わずじまいだったな。すっげー美人だけど、性格が常軌を逸してたって聞いた。そうなん?」
 九郎はさもおかしそうにカラカラと笑って、
「印象深い人だったことは確かだよ。まあ、万民受けするようなタイプでもなかったから、
あれこれ言われるのも理解はできるけどね」
 そう言うと、ひとり先に立って歩き始める。
「うん、無茶苦茶といえば無茶苦茶だったかな」
 まるで独り言のように彼は呟く。その声は高嶺にも届いていたが、ひっそりと受けるに止め、相槌を打つでもなく後ろに続いた。
「やること成すこと全部が規格外だ、随分と手を焼かされたよ」
 過ぎし日を懐かしんでいるのか、九郎の声は柔らかくも優しい。
「でもね、そんなあの人にもひとつだけ、これだけは誇っても許されだろうと思うことがあった」
 頭上に垂れる小枝を払わんとした手が動きを止める。梢の先に散る星でも見ているのだろうか。九郎はしばしの間沈黙したのち、やがて空に語るかにして言った。
「一身に人を愛した」
 連れ合いと我が子を、愛して、愛して、愛し抜いた。
 だから大丈夫。
「早智もいずれ、きちんと人を愛することができるようになるよ」

* * *


 胃に穴が開く寸前……
 結局床に伏してしまった颯斗である。
「なんであんたが寝込むのよ。わけわかんない子ね」
 案の定姉からは容赦ない言葉をあびせられたが、それによって受けたダメージは思いのほか少ない。
「どうかした?」
 向けられた視線に気付いたのか、早智が問う。
「いや。なんでもない」
「そう」
 深く考えるつもりはないらしい。短く頷くにとどめ、早智はそれまでしていたのと同じに、再び膝の上の本に目を落とした。
 騒動は決着したものの、颯斗は安静を言い渡され、早智は騒ぎの罰として一週間の外出禁止をくらった(除く学校)。久方の自由を謳歌する子供たちとは対照的に、共に缶詰の状態で迎えることになった週末。早智は時々颯斗の様子を見に来ては時間を潰してゆく。多くを語るわけではないが、ひとり本を読んでいたり、窓から外の景色をうかがっていたりしている。
 そんな早智を視界の端に置きながら、颯斗はうつらうつら惰眠をむさぼっていた。
 七月の幾日かが静かに過ぎていった。

* * *


「じゃあ、ちょっくら行ってくらぁ」
 再度高嶺が出て行ったのは、あと一週間もすれば夏休みになろうかという頃。今度はそう長くかからないとは言うものの、如何せん彼のことだ、結果がどうなるかは終わってみなければわからない。
 朱音の機嫌はすこぶる悪く、連日警戒警報が叫ばれる有様だったが、いまひとつ事情がつかめないでいる颯斗は、皆に申し訳ないと思いながらも手をこまねいているほかなかった。
「気にしたってしかたないよ。僕らにどうこうできる問題ではないから」
 何か思うところがあるらしい早智が言うので、
「そうかな」
 あっさり納得することにした。
 これについては深入りしないほうがいい。本能的何かが、ザワリと体の内側で蠢いている。
 まだしばらくは……それが表立って見えてくるようになるまでは……
 努めて見ないようにしていた方がいいのだと、そう思うことにした。

* * *


 ひらいた ひらいた なんの花がひらいた……


 学校から帰ると庭先から子供たちの歌声が聞こえた。
「いいよな、あいつら」
 輪になって遊ぶ幼子たちを見つめ、颯斗はしみじみと言った。
 なんやかんやですっかり忘れていたのだが、里が門扉を閉ざし、彼らが息を殺し花守に籠もっていた時、世間様の中学では期末テストが行われていた。
 中学三年生の一学期、しかも期末。色々とまあ致命的なわけだが、とりあえず、和馬を含めた花守の中学生組み四人には、別途日を改めて試験を受けるようにとの通達があった。ここでしくじると自動的に補習が発動する。数学とか、数学とか、数学とか……
 ひとり、遠い世界でたそがれていた颯斗は、つぶやくかにした早智の声で我に返った。
「ああ、この歌には続きがあったね」


 つぼんだ つぼんだ
 なんの花がつぼんだ
 れんげの花がつぼんだ


「ねえ、そうだ。聞いた? ようやく明けたんだってね」
 ひとり先を行っていた和馬が振り返って言う。
「明けた?」
 一瞬いぶかしむような表情を見せた後、
「ああ……そういえば、いい色してんなぁ……」
 颯斗が顔を上げた。早智もそれに続く。
 そこにはもう雨の季節など跡形もなかった。
「夏か」
「夏だね」
 ただただ、圧倒的な青色が広がっているばかり。



 つぼんだ つぼんだ 
 なんの花が つぼんだ
 れんげの花が つぼんだ
 つぼんだと思ったら

 いつの間にか


 ひらいた……



【咲くや、この花 ・ 完】

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