人の気配にはっとする――足音に顔を上げると、暗い山の隙間から九郎と高嶺、そして早智の三人が下りて来るところだった。早智は颯斗を見て戸惑うかの素振りを見せたが、九郎に何ごとかを耳打たれ、ひとり足を止める。
平素と変ることなく柔らかな笑みを浮べた九郎が、右手での合図ひとつを残して、高嶺と共に去っていった。
二人取り残され、それぞれで立ち尽くしている。早智の視線は依然として伏せられたまま。
――まあ、頑張りなさいな――
朱音の言葉が……気だるげに、そしてどこか面倒くさそうにも聞こえた去り際の言葉が、脳裏をかすめる。
早智に歩み寄った颯斗は、わずかな逡巡の後、相手の背中に自らの手を回した。払われるかとも思ったが、意外なほど素直に受け入れた早智は、力無くその体を颯斗の肩に持たせかけた。
相当に堪えているようだ。
「こんなになるまで何してんだよ、お前」
「ごめん」
呟くように言われ、颯斗は空いていたもう一方の手も早智の肩に置き、抱きとめるように添えた。
憤ることが無かったわけじゃない。理解してもらえずに、悲しく思ったこともあったはずだ。けれど今はそんなこと何ひとつ浮んでは来ない。
ただ、強くなりたいと思った。
ゆるがないでいられるよう。
早智が辛いのなら、その痛み薄れるまで支えてやることができるように。
少しでいい。
少しずつでいいから。
――強くなりたい――
「何もあの人だって、最初から死ぬつもりだったわけじゃないと思うよ」
高嶺と連れ立って歩きながら、九郎は語った。
「わずかでも可能性があるならそれにかけようとするはずだから」
最後の最後まで、そうするつもりでの行動だったのだろう……と。
「変に遺言めいたことを残したりするから、早智が混乱したんだ。まあ、そのあたりが、らしいといえばらしいのだけどね」
ふーん……、と頷いたのは高嶺。
「俺は結局会わずじまいだったな。すっげー美人だけど、性格が常軌を逸してたって聞いた。そうなん?」
九郎はさもおかしそうにカラカラと笑って、
「印象深い人だったことは確かだよ。まあ、万民受けするようなタイプでもなかったから、
あれこれ言われるのも理解はできるけどね」
そう言うと、ひとり先に立って歩き始める。
「うん、無茶苦茶といえば無茶苦茶だったかな」
まるで独り言のように彼は呟く。その声は高嶺にも届いていたが、ひっそりと受けるに止め、相槌を打つでもなく後ろに続いた。
「やること成すこと全部が規格外だ、随分と手を焼かされたよ」
過ぎし日を懐かしんでいるのか、九郎の声は柔らかくも優しい。
「でもね、そんなあの人にもひとつだけ、これだけは誇っても許されだろうと思うことがあった」
頭上に垂れる小枝を払わんとした手が動きを止める。梢の先に散る星でも見ているのだろうか。九郎はしばしの間沈黙したのち、やがて空に語るかにして言った。
「一身に人を愛した」
連れ合いと我が子を、愛して、愛して、愛し抜いた。
だから大丈夫。
「早智もいずれ、きちんと人を愛することができるようになるよ」
胃に穴が開く寸前……
結局床に伏してしまった颯斗である。
「なんであんたが寝込むのよ。わけわかんない子ね」
案の定姉からは容赦ない言葉をあびせられたが、それによって受けたダメージは思いのほか少ない。
「どうかした?」
向けられた視線に気付いたのか、早智が問う。
「いや。なんでもない」
「そう」
深く考えるつもりはないらしい。短く頷くにとどめ、早智はそれまでしていたのと同じに、再び膝の上の本に目を落とした。
騒動は決着したものの、颯斗は安静を言い渡され、早智は騒ぎの罰として一週間の外出禁止をくらった(除く学校)。久方の自由を謳歌する子供たちとは対照的に、共に缶詰の状態で迎えることになった週末。早智は時々颯斗の様子を見に来ては時間を潰してゆく。多くを語るわけではないが、ひとり本を読んでいたり、窓から外の景色をうかがっていたりしている。
そんな早智を視界の端に置きながら、颯斗はうつらうつら惰眠をむさぼっていた。
七月の幾日かが静かに過ぎていった。
「じゃあ、ちょっくら行ってくらぁ」
再度高嶺が出て行ったのは、あと一週間もすれば夏休みになろうかという頃。今度はそう長くかからないとは言うものの、如何せん彼のことだ、結果がどうなるかは終わってみなければわからない。
朱音の機嫌はすこぶる悪く、連日警戒警報が叫ばれる有様だったが、いまひとつ事情がつかめないでいる颯斗は、皆に申し訳ないと思いながらも手をこまねいているほかなかった。
「気にしたってしかたないよ。僕らにどうこうできる問題ではないから」
何か思うところがあるらしい早智が言うので、
「そうかな」
あっさり納得することにした。
これについては深入りしないほうがいい。本能的何かが、ザワリと体の内側で蠢いている。
まだしばらくは……それが表立って見えてくるようになるまでは……
努めて見ないようにしていた方がいいのだと、そう思うことにした。
ひらいた ひらいた なんの花がひらいた……
学校から帰ると庭先から子供たちの歌声が聞こえた。
「いいよな、あいつら」
輪になって遊ぶ幼子たちを見つめ、颯斗はしみじみと言った。
なんやかんやですっかり忘れていたのだが、里が門扉を閉ざし、彼らが息を殺し花守に籠もっていた時、世間様の中学では期末テストが行われていた。
中学三年生の一学期、しかも期末。色々とまあ致命的なわけだが、とりあえず、和馬を含めた花守の中学生組み四人には、別途日を改めて試験を受けるようにとの通達があった。ここでしくじると自動的に補習が発動する。数学とか、数学とか、数学とか……
ひとり、遠い世界でたそがれていた颯斗は、つぶやくかにした早智の声で我に返った。
「ああ、この歌には続きがあったね」
つぼんだ つぼんだ
なんの花がつぼんだ
れんげの花がつぼんだ
「ねえ、そうだ。聞いた? ようやく明けたんだってね」
ひとり先を行っていた和馬が振り返って言う。
「明けた?」
一瞬いぶかしむような表情を見せた後、
「ああ……そういえば、いい色してんなぁ……」
颯斗が顔を上げた。早智もそれに続く。
そこにはもう雨の季節など跡形もなかった。
「夏か」
「夏だね」
ただただ、圧倒的な青色が広がっているばかり。
つぼんだ つぼんだ
なんの花が つぼんだ
れんげの花が つぼんだ
つぼんだと思ったら
いつの間にか
ひらいた……