花守綺譚
 〜咲くや、この花〜 3



 雨は上がっていたはずなのに、何故かずぶ濡れ。
「川にでもはまった訳? あんた」
 姉からの冷たい視線を笑顔でかわし、颯斗は靴を脱ぐと、びちゃびちゃに貼り付いている靴下を片足立ちで引っ張る。
 丁度帰り着いたところで、今から出かけようとしている朱音と顔を合わせた。これまでは週に一二度だったが、四月になってからは毎日のように朱鷺子の元へ通っているらしい。婆の指導にも熱が入ってきたようだ……と、ちらりそんな話も聞こえてきたりするが、確かに、元より得体の知れなかった姉が、さらに謎の生き物へと変貌を遂げている感は、わずかながらだが颯斗にも察することができた。
 これ以上どうかなってどうするっていうね、もう……
 完成形は想像するのも恐ろしいのであまり深くは考えないようにしている颯斗である。
「いや、普通に歩いていただけだけど、何かドバッと降ってきてさ」
 おそらくは梢の受けていた雨が、何かの拍子にドドッと落ちてきたのだろう。気をつけてはいたのだが、もうそろそろいいだろうと傘を畳んだ、その直後の出来事だった。
 ま、俺の人生なんてこんなもん――
 齢十四にして、既にこの世は理不尽で溢れかえっているという悟りを得ていた。(その大半は朱音からの仕打ちだったりするのだが)今更この程度のことでたじろぎはしない。
「上がるの、裏からにしたら?」
「あー、やっぱりそう思う?」
 洗濯場へ行くなら裏口から入った方が近い。このまま中を通って行き、あれこれ汚れを撒き散らすことを思えば、最初から入らないでおくのが利口というものだろう。
「早智は?」
「少し前に外にいるところを見たけど。でも、何か機嫌が悪かったみたい」
 濡れても服を汚さないよう薄手のレインコートを羽織り、念のためにと傘も手に持つ。重装備した朱音の横で、濡れ鼠の颯斗は裏口へと回るため再び靴を履きなおしていた。
「ああ……今は時期が悪いからな」
「わかってるんだったら、あんたの責任でなんとかしときなさいよね」
 なんで俺の責任――?
 とは思うのだが、それを問うなど、我が姉に対しては愚行以外のなにものでもないだろう。だからあえてたてつくことはせず、目下の問題を片付けてしまうことに徹した。
「ズボン、普通に干しても乾かないよなぁ……」
 この天気である。小夜さんに頼んで乾燥機を使わせてもらおうと、ひとりこぼした颯斗に、少し先を歩いていた朱音が振り返り言った。
「そうそう、乾燥機壊れちゃったんですって。修理には二三日かかるらしいから、そのつもりでいなさいね」
 布団の丸洗いがたたったらしいのだが、けっして日照時間の多い土地ではない。そのあたりは考慮の上、耐久性も充分吟味した上での購入だったはずだ。しかも、買い換えてからまだ一年と経っていないというのに……
 壊れたのか。よりにもよって雨の続くこの時期。まして今日。
「ま、俺の人生なんてこんなもん」
 達観と諦観は生きていく上での重要な友だち。
 雪柳颯斗、齢十四。こだわるべきこととそうでないことの判断は、早々つけてしまうことにしている。


 寮舎の裏手から少し山に入ったところに、一見してお堂としか呼べない建物がある。外で武術の訓練をする時、稽古場がこの奥にあることから、その建物はもっぱら休憩所として使われていた。
 今日は天気もいまひとつで、誰も好き好んでこんな雨上がりに取っ組み合いなどしないだろうから、当然のこと人気もなく、あたりは薄靄のなか静寂に閉ざされている。
「いた」
 水溜りを飛び退け、軽やかに駆け寄る。床の上に身を横たえていた早智は、果たして寝ていた。着替えもせぬまま、制服姿のままで寝息をたてている。
 同じ道を帰ったというのに。ずぶ濡れだった颯斗とは違い、こちらは上から下まできれいなものだ。良いのは運なのかはたまた要領なのか。思わず苦笑いした颯斗は、音を立てぬよう注意し板の間に上がりこんだ。
(そういえば、ここのところ寝不足が続いていたみたいだし……)
 どうやらこの季節は苦手らしい――
(嫌なことを思い出すんだろうな……)
 風が記憶を撫でて行く日は……そんな日は、確かに存在している。肌がふわりとざわめいて、いつかの思い出を呼び起こすのだ。このあたりは標高も高く、どちらかといえば涼しい土地に属するのだが、それでもこの時期特有の肌を覆うかの湿り気は、息苦しさと供に不快感をもたらす。早智はそれがわずらわしいらしく、時々逃れてはこうして涼を求めていた。
 風は凪いでいるというのに、どこからともなく流れ込んできた冷気が颯斗の足元をかすめてゆく。寝入っている早智の隣に座り込むと、なんとは無しにその横顔に視線を落とした。
 大人びてきたなと思う。最近ことに、思う。頬のあたりから首筋へかけて、わずかに残っていた子供らしさというか、甘さのようなものが抜けてきた。毎日顔を合わせているのに思うくらいだから、案外それは急激に現れた変化だったのかもしれない。
 変っていく。思いのほかの速度で。
 変っていく、誰もが皆。
 否応もなく。
 そう、変ってゆく……
「あ、悪い。起こしたな」
 早智が目を開けたので、颯斗は詫びを入れた。
「でも、気をつけないと風邪ひくぞ。案外寒いだろ、ここ」
「平気だよ。颯斗ほど弱くないし」
 早智は寝返りを打ち、言った。
「俺も別に弱くはないって」
 突発的に調子を崩すことはあったが、けっして虚弱体質とかそういうのではない。
時々熱も出すし、腹の具合も安定しているとは言えないが、まあ、充分に健常の範囲内なのだろ。
「悪かった」
 不意にそう言われて、颯斗は問い返した。
「え? 何が?」
「先に帰ったこと」
「ああ……」
 確かに、姿が無かった時には寂しくも思ったが、でも、そんなことはその場で忘れた。この期に及んでまでひきずったりするような性格ではない。
「いいって、別に」
 早智が背を向けたままなので、互いに視線を合わすことなく、短く言葉を交わすとそれで終えた。
「そんなことより、そろそろ帰らないか? 腹も減ってきたことだし」
 夕食の時間も近づいてきているはずだ。けれど早智は、
「もう少し……」
 そう言うと再び寝入ってしまう。
 颯斗は膝を手繰り寄せ、腕の間に頬を埋めた。
 どこか遠くで鳥が鳴いたような気もするが、音はそれきりで、あたりは黄昏のしじまに沈んだ。


 夏が来るといい。
 早く。
 陽射しが、熱が、
 すべてをその向こう側に追いやってしまうから。
 夏が……
 そう、早く夏が来るといい……

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