(三)
ふと見上げた空の青さに吐息する。灼熱の太陽と、ざらついたアスファルトに焼かれた風が、足元をすり抜けると共に耳元を、そして両の頬をなぶり、いずこかへと去って行く。
時間は正午を過ぎたばかりで、空が曇ることなど予想もつかなければ、きっとこの暑さは一日のうちでもまだ途上。逃げ水を追うかの帰り道を、川のせせらぎと、揺れる柳を横目にひとり歩いた。
生まれてからこの方、年に幾度となく住まいを変える暮らしが続いていたため、同じ町で夏をむかえる事は一度としてなかった。来年もまたきっと、また違う空の下、また違う風に吹かれているのだろうと思った。
朱塗りの橋を渡り、仮住まいの部屋へと続く階段を上がる。
冷房の気配にひと呼吸し、奥の間に足を踏み入れると、あざやかな色彩が視界に飛び込んで来た。
赤く、紅く、朱く。
あざやかに、華やかに。あふれんばかりに彩られた薄絹を羽織り、窓にもたれるようにして外の景色をながめている後姿があった。
女の姿も、その着古された薄物も、常日頃から見慣れているはずなのに、
何故だろう?――
何故だかとても印象に残った。
空が映す青と、それの対比があまりにも絶対的だからだろうか?
「あら、おかえりなさい」
白い顔が振り返り、そして名を呼ばれた。
「早智」
低く甘い声。
その声が、呼んだ。
早智……
「……」
灰色の朝、ひとり目覚める。
あれはそう、確か最後の夏。二度と巡り来ることのなかった、あの夏の日の記憶だ。
早智は、覚醒すると共に、儚くも消え去ろうとしているその夢のことを思った。
ついに朝まで置いて行かれましたよ――
最近は寝つきが悪いせいか、朝もひとり早くから起きたりしていて、いつものように颯斗が目覚まし時計代わりを務めることも、あったりなかったりという日々が続いていた。
だからその日も、部屋を覗いた時早智の姿が無いことについて深く考えはしなかったし、半月前に入ったばかりの拓人がぐずっていたから、あやしているうちに時間が過ぎてしまった。
急いで身支度を整え、早智の姿を探したのだが、
「そういえば三十分くらい前に、出て行くのを見た気がするかな?」
時間が押し迫り、焦りが戸惑いとなって表情を曇らせるようになった頃、庭先で顔を合わせた九郎がそう教えてくれた。
「当番仕事でもあるのかい?」
掃き掃除の手を止め、彼が問う。
「え? あ……そうだったかな? 俺が忘れていただけなのかも……」
無い無い、当番仕事なんて無い。
だけどそれを言うには何故だか気が退ける思いがして、颯斗は適当にごまかすとひとり駆け出して行った。
「急ぐのは勝手だけど、車を追い抜くような走り方はするんじゃないよ」
九郎の忠告には右手を上げることで応えた。
何の因果でこんなことになっているのか。
同い年の友だちがいて、念願の高嶺が帰ってきて、本来なら最高に楽しい状態でいられるはずなのに。
楽しくない。ちっとも楽しくなんてない。
「嫉妬してるんじゃないかな? 早智君。颯人君が高嶺君と仲良くしているから」
「馬鹿、そんなんじゃないよ」
颯斗は貴弘の言葉を否定する。
そんな……単純な話ではないのだ……
嫉妬してもらえるくらいならまだいい。救いがあるとさえ思ってしまう。そんなふうに執着してもらえるということはまだ……
そう、嫉妬ならばまだ、誤解だと言って説くことができる。わかってもらえるよう努力することだってできる。
言葉を重ねることも、心を尽くすことも苦だとは思わない。
謝れと言うなら、傷つけたと言うなら、いくらでも己の無神経を詫びるだろう。そんなつもりなどこれっぽっちも無かったのだと言う。それでもまだわからないと言われるのなら、もしかして、証としてどちらかを選ぶよう求められるのだとしたら……
颯斗は、早智を選ぶだろうと思う。
高嶺のことは今でも好きだし、思い出も何もかもひっくるめて大切に思っている。けれど、彼は颯斗にとって“兄”だ。一足先を行く者。同じ時を生き、同じものを見て行けるわけではない。同じように時の彩の中に立ち、同じように風を受けて歩む、そうできる存在を、颯斗はこの二年のうちに見つけてしまった。
いっそのこと、選んでくれと言われた方が良かった。
そう言ってくれたならいくらでも選ぶのに。
何を捨ててでも……選ぶというのに――
早智は他者を必要としていない。颯斗のみならず、誰も……
あれはひとりになることを望んでいる。
「人なんてみんなそれぞれだから、考えても仕方がない時ってあるよ」
夏に言われて颯斗は「そうかなぁ……」と呟く。椅子の背もたれに首をのせ、梢の向こう側に見える空をあおいだ。
「ただでさえ早智って難しいから」
かく言う彼自身もかなり難しい部類に入るのであろう夏。この春、花守へと引取られて以来、里の最奥、空木邸での預かりの身となっていた。本来なら子供たちは皆、花守塾でひとまとめにして育てられるのだが、夏の場合は少々事情が込み合っていたため、ひとり特別待遇を受けることになった。長らく異種の中で暮らしていたせいか、同族の元に戻ってからの変化は不安定であり、時に著しくもある。
しばらく姿を見ないと思ったら、半月ほど眠っていたらしく、今朝方起きたというから会いに来たのだが、見た感じでは未だ夢現といった具合だ。当然のこと学校にも来たり来なかったで、もしかすると今月に入ってからは、まだ一度も登校したことがないのではなかろうかと思われたが、如何せんこんなふうだから里の方でもうるさく言ったりはしないし、ゆっくり育てよ、とばかりに“ニシキギ”が残した最後の一葉を見守っている。
「焦ったってろくなことないよ。なるようにしかならないってさ、最初から決まっているんだから」
「へぇ、なっちゃんって、運命論者なんだ」
「そんなことはないけど。でも、どうにもならないことっていうのは、確かに存在しているものでしょう?」
「そりゃぁ、まあ……」
どうにもできなかった、ということは確かに多々あるが、
「そういうのって、自分の力が及ばなかっただけのことじゃないかなぁ……」
努力すればどうにかできたかもしれない。その可能性というのも捨てきれないのであって。
「うん。そういう考え方も、嫌いじゃないよ」
「どっちなんだよ、まったく」
早智が風なら、夏は水だろうか。双方とも、どこか透明なイメージがつきまとう。
滝壺が立てる濁音が、ここへも微かに届いていた。小康状態を保ってはいたが、いつ落ちてくるかわからない鈍色の空の下、過分に漂う水の気配と、その中に沈む水のイメージを伴った少年。
「いいじゃない? 幼馴染と楽しくやっていればさ。早智は怒ったりしないよ。颯斗だけじゃないか、あれもこれも抱え込んで損しているのはさ」
「まあ……な。怒りはしないだろうな、きっと」
怒るどころか、熨斗をつけて高嶺に返品くらわされそうな雰囲気だったりもする訳だが。
少なくともこれまで、早智はあれでも颯斗の気持ちを汲んでくれていたのだ。友だちでいたいという気持ち。一緒にいたいという颯斗の気持ち。そこに高嶺という受け皿ができてしまえば、早智は何の躊躇いも無く颯斗を手離し、潔くひとりになることを選ぶに決まっている。
諦めたら終わる。それも一瞬でだ。
――手離してしまえば楽になれるのだろうか。
もういらないと言って、他の違う何かを求めてしまえば、この心……――
嫌なんだよ、それじゃあ。
「とりあえず、待つといいよ。夏が来る頃には変っているからさ」
「え?」
ふいにそう言われ、颯斗は問うかにして声を発した。
「どちらに舵が振られるのかはわからないけど……だから、悔いを残したくなければね、やれることは全部やっておくんだ」
「なんだよ、それ。予言か?」
「さあ、どうだろうね」
そう言って夏は、小さな欠伸を噛み殺すと、ガーデンテーブルに頬を落とし、うつらうつらと眠りはじめてしまう。
「おいおい」
ひとり取り残される形になった颯斗は、苦笑いと共に、しばし深緑の下で物思いにふけった。