(四)
正直に言うと、ちょっとだけ堪えた。
今だって胸を張って――友達だ――なんて言える自信、どこにもありはしないのであって。
勿論、颯斗は早智のことを友達だと思っている。大切な友達。
だけど、こちらはともかくとして、向こうはどうなのだろう?――、そう思うと、やはり怯む。
ずうずうしいというか、おこがましいというか。
勘違い甚だしい――そんなふうに思われている可能性の方が大きいのではないだろうか?
颯斗にとって早智は友達。掛け替えの無い友達。けれど、早智は? 早智は、どう思ってくれているのだろうか?
これでも努力してきたのだ。度々壁にぶつかり、その都度頭を抱えて、それでも少しずつ、少しずつ、相手に認めてもらえるように頑張って、少しずつ距離を縮めて、ようやく今の位置を手に入れることができた。
でも、高嶺のやつはそれを一足飛びで踏み越えて行った。
別に、自分が苦労したからといって、他の人間にまで同じようであれとか思っているのではない。要領の良し悪しなど人それぞれだし、自分が不器用だっただけだと思えば片がつくこと。
けれど何故だろう?
心が“痛い”と言っている。
未熟だからだろうか?
子供……だからだろうか?
「しんどそうな顔してるのね」
「え?」
前方に立っているのは洗濯籠を抱えた朱音。
外は小雨まじりの模様が延々と続き、灯りをつけないでいる廊下は薄暗く沈んでいた。
(あ、めずらしく自分でするんだ……)
なんてことを考えていた矢先、山盛りに詰め込まれた籠を手渡された。
「そういう時には洗い物でもして気晴らしをなさい。好きでしょう? 洗濯」
「え?」
「じゃあ、よろしくね」
「ちょっと、姉ちゃん」
「そうそう、知っているとは思うけど、それ全部お父さんの“気持ち”だから。大切に扱いなさいよね」
「……」
どうしてこうなるのか。
その答えを颯斗に与えてくれる者はいない。
洗濯が好き――?
そんなことを言った覚えはないが。朱音の記憶にはあるのだろうか。
壊れているのはどっちの頭だ?
確かに、嫌いというのではないが、「好きか?」、と問われて即答するほどのことでもない。
とはいえ、暇にしているとろくな事を考えない。それは事実なので、何か気の紛れることをするというのは強ち間違った判断ではないだろう。
「洗うのはいいけど、乾かねぇんだよなぁ、これが」
梅雨も酣。今日も今日とて小雨模様。乾燥機は直っているようだが、流石にこれをそこにぶち込むわけにはいくまい。おしゃれ着洗いは陰干しが鉄則なのであって。
しかし、下着類が入っていないということは、最初から颯斗に押し付けるつもりで持ち歩いていたようだ。最近頼まれないとは思っていたが、自分でやっているのだろうとかいう楽観は、今回限り捨ててしまおうと思う。
「どこにこれだけ溜める必要があるっていうんだ」
姉は衣装持ちである。だから少々溜め込んだところで支障が出ることはないらしい。父の愛が彼女を守っているのだ。そして同じその愛が、こうして仇となり弟に降り注いでいるというのは皮肉だ。この上もなく皮肉だ。
「終わんねぇ〜」
次なる一枚を手にして、颯斗は笑った。笑うしかないから、笑った。
綺麗にするのは嫌いじゃない。
綺麗になっていくのを見るのは、好きだ……
いい笑顔だったよな。
ふと、早智のことを思った。
(あいつが楽しそうにしているのならそれでいいじゃん)
ただそこに颯斗の居場所が無いだけであって。
それだけのことだ。
(楽しそうにしていられるのならさ)
それでいいと思った……
飲み込んでしまえばいい、全部。
そう思うのに、いまひとつ上手くいかないのは、やはり己が未熟者だからだろうか。
寝つきの良さが自慢だったというのに……
だから一度目が合わないなんていうことが起こると、どうしていいのかわからなくなる。これ以上無駄に寝返りを繰り返していても埒があかないので、深夜徘徊なんてものに出てみることにした。
誰もいない夜の屋内を歩くと、何だか不思議な気持ちがする。滅多にしないからなおさらのことだ。終点は建物の構造上から遊戯室になるだろう。あそこは見晴らしは良いから「眠くなるまで暇つぶしツアー」のメインイベントにも相応しいと思われた。昼間の空模様は相変わらずだったが、今夜はめずらしく月が出ていたりする。
しかし、そこには先客がいた。
早智――
嬉しさと気まずさが混ざり合い、颯斗の中で揺れる。
きっと、早智も眠れないでいるのだろう。颯斗がその苦労を味わうなど滅多にないことだから、普段は暇つぶしの相手さえしてやることができないのだが。
かといって今は……
何の因果でこんな時に鉢合わせするのか。
互いのためにも気付かれぬうちに立ち去るべきだろうと、颯斗はひっそりと右足を引いた。けれど、長椅子に身を預ける早智に違和を覚え、動きを止める。
もしや……と思い歩み寄る。
「おいおい」
いつからいたのだろう? 追っていたはずの睡魔に後ろから捕らわれでもしたのか、知らぬうちに眠ってしまったようだ。
「風邪ひくって」
このあたりの夜は冷える。颯斗は子供たちが午睡時に使うブランケットを持ってきて、起こさぬようそっと早智の背にかけてやった。
とてもではないが、健やかな寝息とは言い難い。
悪い夢でも見ているのだろうか。
捨て置くことを躊躇い、横に腰を下ろした。
月明かりに苦悶の横顔を映して、早智は眠る。
颯斗はその耳元に手を置き、光沢のある細い髪を撫でた。子供たちを寝かしつける時の癖。ついついそれが出てしまう自分に苦笑し、困り顔のまま零した。
「どんな夢見てるんだか、まったく」
苦しげに寄せられる眉を見ていると、心がざわめく。
この指が痛みの一片だけでも受けてやれたらいいのに……
何もできないでいるのがもどかしい。
「……」
流石にこれは起こしてやるべきだろうか。うなされる様を見て、颯斗は早智の肩に手をかけた。
「良かった。無事でいたんだ――」
咄嗟にそう言われ、縋るように腕を取られた。
「え……?」
一瞬、なんのことだかわからず動きを止めたものの、すぐに夢があふれただけだと思いなおした。
「大丈夫かよ、うなされてたぞ」
「ああ……」
かなり気まずい事態なので、できる限り何事も無いかのように流そうと努めるのだが、それでも現状たちこめる空気というのは、かなり……
気まずい……
「ちゃんと部屋に戻って寝ろよな。お前の体冷え切ってるぞ」
「わかってるよ」
早智は颯斗を見ないままでぶっきらぼうに言った。何事かを考えているふうでもあり、そのまま黙り込んでしまった。
沈黙に押し出されるかにして歩き出した颯斗は、立ち止まり、振り返り、ひとり残してきた早智を思った。
あんな顔、初めて見た……
あんな無防備な顔……
あれは、捨て置かれた時に見せる子供の顔だ。
わがままを躾けようとしてのことだが、見捨てられたと思ったのだろう、子供が見せたあのなんとも言えない寂しそうな顔。
―― 本気でもないのにすることじゃないよな。
本気で捨てるつもりなど無いのに、狂言で人の心を操ろうとするなど……
親ならば心を鬼にしてでもそうする必要に迫られるのかもしれない。けれど、少なくとも今の自分にはまだ無理だと思った。
泣きそうな顔をしていたというのに……
早智が。
あの早智が……だ。
「何にもしてやれないんだな、俺」
見上げた窓の外、ただ月だけが清かに浮んでいた。