待っていろと言われても、じっとしていることなどできなかった。追おうとして叶わず、ひとり森の中を彷徨う。
日は既に西へと落ち、まるで断末魔を上げるかの如くであった緋色の残影も、知らぬ間に何処かへと失せていた。
黄昏の迫る中、消えていった人たちを求め、彷徨う。
どこで間違えたのだろうか。いつもと変らない朝だったというのに。誰がこんな顛末を予想できた?
それとも、全てが最初から決まっていたのだろうか。
生れ落ちた時から。いや、生れ落ちるよりも前から。ずっと先から、この日、自分がひとり残されることは、決まっていたとでもいうのだろうか。
遠く、運命を知る者の笑い声を聞いたような気がする。
不気味な静寂に沈む森を、ただ自らが地を踏みしだく音だけを連れとして歩いた。歩いて、歩きつかれて、やがて足を止めた。
もう、何処へ行けばいいのかわからなくなった。
誰もいない。これまで導いてくれた人たちはもう。先に立ち、この手をひいてくれていた人はもう、誰も。
誰も、いなくなってしまった……
いっそのこと、この身このまま、闇に溶けてしまえばいいとさえ思う。現実が連れて来る明日なんて、それがどれだけ残酷な顔をしているか容易に想像がつくのだから。
辺りは少しずつ、けれど確実に、黒く塗り換わっていく。
成す術もなく立ち尽くしていた。
五感を呼び起こしたのは猛禽の嘶き。次いで上がる羽音にはっとする。
藪を踏みしだく足音に振り返り、遠く、黄昏の先に人影を見た。
その人だと思った。
その人でなければならない。
そう、強く思った。
近づくにつれあらわになっていく顔かたち。心には安堵が滲み、縋るようにして腕を伸ばした。
悪夢が終わる時が訪れるはずであった。
「良かった、無事でいたんだ」
母さん――
「なんてことがあって以来、嫌われているんです」
誉は事の次第を語ると、その形のいい口元を苦笑に歪めた。
「こっちは早智の行方を探していたわけですけど、早智の方は母親を見つけたと思ったのでしょうね」
ほら、このとおりの顔ですから……
父親でも母親でもなく、父の妹である叔母に似ていると言われる自らの顔を示し、揶揄するかの如く言って見せた。
「どうりで徹底していると思ったら、そういうことかい」
九郎は腑に落ちたとでも言うように返す。
「恥かしかったのでしょうかね? 子供って、妙なことにこだわったりするじゃないですか。ちょっとした失敗を随分長いこと気にかけたりしていて」
「確かに。そうかもしれないね」
頷くとともに、若干見通しの良くなった裏庭を眺めた。雨の間を縫い、延び放題の庭木に手を入れていたのだが、そこへ誉が顔を出したので、一旦手を止め休憩を決め込んでいたのだ。
「おまけにその後ですよ。これはご存知のことと思いますが、うちの母親が妙な気を起こしたりするから、余計に話がこじれてしまって……」
本人にすれば気を使ってのことだろうが、里香子は早智を引取ったのち、世話役として誉を着けた。そもそも従兄弟であるし、歳もそう離れてはいない。母親に似ているのであれば親しみも湧くだろうと判断してのことだ。
けれど……
「詰めが甘いっていうか、時々突拍子も無い発想をするんですよね。そういう思いつきで事を起こした時に限って、こっちが大迷惑を被る結果になるんです。真剣に新手の嫌がらせかと思いましたよ。連れて帰る間中俺には一言も無かったんですから。それを引き続き面倒見ろって言われてもねぇ」
しかし如何せん譲葉は縦社会である。命じられれば嫌とは言えないのが、彼の置かれている現状でもある。
「無言で怒ってるわけですよ。しかも一切表情には出さず。あの顔でそれをやられたら、極寒のブリザードが吹き荒れるでしょう。怖かったんですから」
必死に訴える誉を笑顔で制し、
「わかったから」
九郎は労うと共になだめた。
「それで? 何か新しい動きでもあったのかい?」
誉の来訪はいつも突然だが、今回顔を出したのは普段の暇つぶしとは違うのだろう。
「北の方で少し。実はこれからそちらへと向かわなくてはいけません」
「そうか。残念だね。残りは君に片付けてもらおうかと思っていたのに」
嘯いて言い、未だ半分以上手付かずでいる裏庭を見回す。
北といえばあの山の向こうか。
目を凝らし、心を飛ばすかにしてそちらの方を見つめた。
特に何を思っていたわけでもないが、ほんの少しだけ、そうしている時間が長かっただろうか。
「すみません。来るべきじゃないことはわかっていたんですけど」
「そういう気遣いは不要だと言ったろう?」
斜めに向けられた視線を受けて、
「はい……」
誉は力なく答えた。
「どうしたのさ。今日はやけに弱気じゃないか。臆病風に吹かれでもしたのかい?」
九郎が口の端を上げて言う。誉のことは小さな頃からよく知っている。末っ子で、兄たちを仰ぎ見て育った分、自分が子供扱いされるのを何よりも嫌っていた。
「おや、怒らないんだね」
かつてならきつく寄せられていただろう眉は、まるでそうすることを忘れてしまったかのように、戸惑い気味に揺れているだけだ。
「そうですね。怖いのかもしれません。だから、背中を押して欲しくてここに来てしまったのかもしれない」
自嘲気味に言うと視線を伏せる。
九郎は鼻で笑い、
「困ったねぇ。そんなふうに素直にされてしまうと、苛めようという気も失せるじゃないか」
などと言ってみせた。
穏やかな午後だ。なだらかな山並みが幾重にも重なり、果て無き空が更にその上を覆っている。不穏の気配など、この静寂の何処にあろうかという。
誉の考えは手に取るようにしてわかった。まだ二十を過ぎたばかり。ものの分別がつくようになった分、やり場の無い感情の落とし所に迷う頃でもある。
揺れている。かつて九郎自身がそうであったように。だからわかる。
そして、それはこの先に進もうとするなら、どうあってでも超えて行かねばならない淵のようなものでもある。下手に足を取られれば確実に沈む。
大丈夫――
気休めを言うつもりはなかった。
「終わったらまたおいで」
ゆっくりと戻された視線が九郎を捕らえる。
「だから、気をつけるんだよ」
やわらかくかけられた言葉に「はい」、と。
誉は頷き、安堵するかにして笑った。