花守綺譚  〜 だから僕は楽園を夢見る 〜 10


8.
 巫女の名を持つ女たちは、幾度もの修行を経てようやくこの力を会得するのだと聞く。
 早智にとってはもの心ついてよりのこと。手足を動かすのと同じ、息をするのとも同じで、考える必要などなく、しようと思えばできてしまう、そういうたぐいのことであった。
 だから、男の子なら子供のうちに失くしてしまう力なのだと、そう教えられた時は哀しかったし、悔しくもあった。
 亡き母や朱鷺子のように、幻を見せ人心を惑わせたり、また人の心の奥深くにまで降りて行ったりすることはできない。
 早智にできるのは体という硬い殻から心を解き放ってやること、ただそれ一点のみ。  寮舎の壁をすり抜け、花守塾を下に見る。はるか上空から見下ろす花守の里は、わずかに灯る人工の明かりが見えるばかりで、暗く夜の海に沈んでいた。
 昨夜のあれは夢ではなかった。早智はそう思っている。これまでにも何度か、願望が高じてか、かつてのように空を飛ぶ夢を見た。
 なかには本当に体を抜け出ていたこともあったのだろう。
 ああ、こうして力を喪失していくのだ――
 目覚めるたびに早智は思った。
 けれど、いくら望んだからといって、もう自力では飛べない。
 あの時、何故に朱鷺子は早智まで連れ出す必要があったのか。経験云々をいうなら朱音だけで良かったはずだ。和馬との融合か、颯斗との融合か、いずれかの時点で朱鷺子は気付いたのだ。
 この一件の解決には早智というもうひとつの因子が必要なのだと。
 朱鷺子の力が早智の奥深くで燃え残っていたものに熱を与えた。いま一度飛べと、そう言われているに違いなかった。
 両の腕を大きく広げ、星神山の頂を目指して飛ぶ。昨夜虎太郎が飛んだ軌跡を思い描きながら、同じ空の上をなぞった。
 山の頂には古い祠があった。ひっそりと闇に溶けるそれに何故か違和感をおぼえて、早智は確かめるように近づいて行った。


 青空が見える。いく筋もの雲がたなびいていた。
 空には半球状の鉄枠が架かっており、よく見るとおびただしい数の硝子がはめ込まれている。
 これは研究所にある温室の拡大版か。はたまた操の家のリビングを基としたのか。イメージの礎となったものをそこかしこに見ることができる。
 早智はゆっくりとあたりを見渡す。ここは現実ではない。ここは虎太郎が創り出した空想の世界だ。
 祠には異世界へと通じる抜け道が仕掛けられていた。小さいとはいえ、空間の構築ができるほどの力をあの少年は持っていたことになる。
 あざやかに咲く亜熱帯の花が香る。はるか遠くで猛禽の鳴き声がした。
 鬱蒼としげる緑の迫持(アーチ)を抜けると、道は穹窿(ドーム)の中央へと出た。ぐるりと張り巡らされた鉄柵の向こう側は、天井と対する形で半球状にくぼみ、中心部には一本の巨木が生茂っていた。
「あ、早智君だ」
 上のほうで声がする。器用に枝葉をすり抜けてくるのは、ほんの数時間前まで一緒にいた顔だ。けれどあれが与彦であるはずはない。ならば、弥彦か。
 弥彦は早智のそばまで来ると、降下を止めてふわりと浮いた。
「ほかの皆もいるのかい?」
「うん」
 ほら、と言う弥彦は、それが与彦なら簡単には見せないであろう無防備な笑顔で大樹の方をふり返った。
 太い枝に半分隠れるようにして、心配そうにこちらをうかがっているのは省吾と日織だ。和馬は大胆にも手をふっている。
 早智は地面をけって泳ぎ出た。無数に広がる緑葉の中を行く。セロファンにも似た薄い葉は陽光に透け、角度によって様々なグラデーションで魅せた。
 颯斗は、中程で大きく分かれた幹の付け根にいた。笑おうとして叶わなかったのか、申し訳なさそうな笑みと困り顔を混ぜこぜにして早智を見ていた。
「颯斗」
 問い質したいことはたくさんある。はやる気持をおさえきれずに早智は呼んだ。
 しかし、颯斗が口を開くより前に、すい、と進み出てきた和馬が言った。
「残念。見つかっちゃったね。ゲームオーバーだ」
「ゲーム……」
 短く言って、早智は颯斗を見た。胸の奥でチカリ、と熱いものが弾けたのを感じる。颯斗はますます困ったとでもいうように力無く口もとを引いた。
 ゲーム、ゲームとは何だ。花守の皆を心配させ、朱鷺子まで担ぎ出す始末にもかかわらず、彼らはゲームをしていたというのか? 
「待って。怒らないでよ、早智君。颯人君は関係ないの。私たちがしたことなんだから」
 美月だった。普段から濡れてみえる黒目勝ちの瞳をさらにゆらして、半泣きの少女は早智にすがった。
「帰りたくなかったんだ。外は怖いよ、花守がいい。だから僕らで虎太郎君にお願いしたんだ」
 与彦の視線の先、早智の位置からでは斜め左上に虎太郎の姿はあった。
 泰然としていてひ弱さなど微塵たりとも感じさせない。
 堂々とした立ち姿。
 白磁の肌が新緑に映え、一瞬大樹の精を見たかのような錯覚を早智に与えた。
「颯人君は特別だよ。僕が来て欲しかったから誘ったんだ」
 きっと颯斗は虎太郎に着いて行ったのだろう。虎太郎の背後に子供たちの気配を感じたのだ。だから……
「閉じ込められるとは思わなかったのかな? 素直なのもいいけど、もう少し警戒心を持たないとね。教えてあげるといいよ、早智君。このままじゃぁ、また別の誰かにさらわれかねないよ」
 虎太郎は高らかに笑って言った。
 笑って、いきなりそれを止め、ほんの少しだけ肩をすくめて見せると、
「延々と説教されちゃった」
 苦笑まじりにそうこぼした。
 颯斗は彼らを置き去りにして自分ひとりで現実世界に戻ろうとはしなかったはずだ。仮に、和馬たちがここに残ると言い張ったのならば、懇々と理を説いて説得を試みていたに違いない。
「だから、終わりを決めることにしたんだ。それが早智君、君だよ。君に見つけられたら終りにするって、そう決めたんだ」
「颯人君が言ったんだ。早智君ならきっとここがわかるはずだからって」
 補足とばかりに和馬が付け加えた。
 早智は改めて颯斗の方を見る。颯斗は相変わらず困ったように眉根を寄せ苦笑いしていた。
「案外早かったね。もう少し時間がかかると思っていたんだけど。僕の負けだ」
 終始勝気な口調に変わりはなかったが、最後のひと言には悔しさか淋しさか、わずかながら別の感情が滲むのを早智は感じた。
「ごめんなさい。これで何か変わるとか、そんな大それたことを思った訳じゃないんだ。ただ、少し無茶がしてみたかっただけ」
 訥々と、言葉を選びながら省吾が言った。慎重な彼がいつもするように、できる限り自分の意思が明確に伝わるように。
「言い出しっぺは僕。虎太郎君は僕を見かねて手助けをしてくれたんだ。帰りたくなんてない。僕らだけの世界に行きたい。周囲のことなんて気にしなくてもいい、僕らだけで暮らす世界が欲しい。そう言ったから」
 隠す必要はない、合わせる必要もない、ありのままをさらけ出して、あるがままに生きる。たとえわずかな時間でもいい、叶うならばそんなところへ僕は行きたい――
「なんだ、そうなの? 省ちゃんってば本気じゃなかったんだ」
 和馬が素っ頓狂な声を上げる。省吾はおだやかに笑った。
「じゃあ、和馬は本気なんだ?」
 早智は問う。
「うーん……これでどうにかなればいいって思ったのは、本当。でも、ずーっとこうしているわけにもいかないんだよなぁ〜って思うと、不安だったのも、本当。まあ、ある程度気はすんだかな? 空も飛べたし」
 同意を求めたのか、同い年の日織に目をやる。日織は素直にうなずき、そして少し遅れて美月がコクンとうなずいた。
「んじゃ、帰るか」
 タイミングを見計らうかにして颯斗が言った。
 誰も異論を唱える者はいない。表情は皆それぞれで、心残りがある者もいるかもしれない。けれど、和馬の言葉がすべてなのだと早智は思った。
 このまま、いつまでもこうしているわけにはいかない。生きているのだ。逃げる術などないのだ。一夜にして両親を亡くした早智に、太陽が容赦なく明日を連れて来たように。
「お前ら、一応説教は覚悟しとけな。それから、鷹虎さんにすごまれるより、九郎の薄ら笑いの方が怖いっていうことも覚えておけな」
「えーっ」という戸惑いとも批難とも取れる声が数人の口からこぼれた。弥彦は苦笑していたが、
「僕は与彦の方が怖いなァ。きっとしばらくは嫌味三昧だ」
 与彦の言動が目に見えるように浮んで、早智と颯斗は顔を見合わせて笑った。
「虎太郎君」
 早智が呼ぶ。
「コタ」
 颯斗も呼んだ。
 省吾が枝の下であおぎ見ながら待っている。
「帰ろう、一緒に」
 虎太郎は照れ具合を隠そうとしたのか、少し泣きそうな顔で舞いおりてきた。

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