花守綺譚  〜 だから僕は楽園を夢見る 〜 12


 寮舎から学び舎へと続く渡り廊下を行く。
屋内に入ってもなお、しんと冷えた空気が早智をつつんだ。月影はさやか。けれど、白い光にぬくもりはなく冷たい水底のような廊下を足早に進んだ。
 一階は突き当りが遊戯室になっている。さすがに早智の歳でこの部屋を使うことはなかったが、無造作に積み木の仕舞われた木箱、つたない線で彩られたクレヨン画、微かに漂うニスの香りなど、それらが喚起するのはやはりなつかしさなのだろう。眠れぬ夜、寮舎の自室でじっと息を殺しているのが辛くなった時、早智は時々ここをおとずれていた。
 先客に気付いたのは、引戸を開け室内に漂う暖かな空気に触れた時だ。暖房が入れられている。明度の高い空を背にして、出窓の桟に腰かけている誰か。
 九郎だった。普段から子供たちに「そこは座るところじゃない」、と口うるさく言っている張本人である。
「眠れないのかい?」
「そっちこそ」、と言おうとして、早智は九郎の膝に小さな女の子が乗せられているのに気付いた。
「さち」
 舌足らずがかろうじて聞き取れる声で呼んだ。ほほをなでてやると、美香子は気持良さそうにまぶたを閉じた。
 美香子が花守に来たのは、二週間ほど前のみぞれ混じりの午後だった。三歳と半年。少し早いようにも思うが、珍しいことではないらしい。
 どこか変わった子――周囲の認識がそれですんでいるうちに手離さなければならない、その方がこの子のためにも良いのだ。まだ若い両親はそう語ったという。
「小夜さんがいないから機嫌ななめでね」
「すぐになつくよ。他の子たちだってそうだ」
 早智は九郎の横に腰を下した。
 美香子はまだ日が浅いせいか、同性で母親を髣髴とさせる小夜の方が好きらしい。けれど時が経つにつれ、中の仕事で忙しい小夜より一緒に遊んでくれる九郎の方が良くなるに違いない。ここ花守で、こと子供たちのあつかいに関しては、九郎の右に出る者はいないのだから。
 けれど、早智ぐらいの年になると、この男の持つ多面性が見えてくるようになる。一見人畜無害な顔をしながら、彼もまた里守である。一朝事あるときは、たとえ花守を灰燼に帰しても子供たちを守らなければならない、それが子守り役でもある彼らに与えられた役目なのだから。優しいだけで務まることではないだろう。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 早智が言うと、美香子にブランケットを掛けなおしていた九郎が「なんだい?」とこたえた。
 昔、どこかでちょっとだけ聞いた話で、本当かどうかもよくわからないんだけど……
 早智はそう前置きする。
「“まほら”の記憶を代々引き継いでいる家系っていうの、知ってる?」
 映写機が映像を残すように、遠い過去に生きた者の記憶を延々と受け継いでいる一族がある。
「ああ、それなら“ニシキギ”のことだ」
「なんだ、そんなことか」、とでもいうように九郎はさらりと言ってのけた。早智は拍子抜けしている自分に気付いて、二三度瞬きをすることで表情を繕う。
 夏に見た時にはわからなかったものが、与彦のあの絵にはあらわれているような気がした。それは虎太郎から弥彦へ、そして与彦へと伝えられる過程で、純粋なもののみが濾過されていったからなのかもしれない。
 颯斗とふたり、しばしそれに魅入った。どうしようもなくなつかしい。風の音が、すれあう緑葉のざわめきが、今にも耳元でよみがえるような気さえする。記憶の中にある何かが、あの絵に描かれたものと呼応していた。
 はるかなる“まほろば”。
 そこでの日々は彼ら伽羅にとって至福だったとされる。まだ世界は若く、神と呼ばれる創造主の元、まどろむかのように暮らしていた。
 神は、次代を託す者として“人”を創った。けれど、やがて神の世は終わり、彼ら神がが何処かへと姿を消した後、数多の“人”という種族の中で“伽羅”は異端となった。
「試作品だったのだろうか、僕らは」
「さあ……どうだろう?」
 九郎が首を傾げる。
「ただ、ひとつだけ言うなら、最終段階での主流じゃなかったことは確かだろうね」
 多くの力を与えられていたが故に、異端とならざるを得なかった。皮肉ではあるが、以後それが伽羅の現実としてつきまとうことになる。
 虎太郎は“まほら”に魅せられていた。彼ら伽羅が人として普通に生きることを許された唯一の時代。身を焦がすほどに焦がれて、自らでその再現を試みるまでなったのだとしたら……
「『見せてやりたい』、颯斗がそう言うんだ。うっかりうろ覚えの話なんかしたものだから、昨日は落ち着かせるのに一苦労だった」
 颯斗は詳細を知りたがったが、早智もそれほど詳しい話ではない。思い込んだら一途のところがある颯斗は、一度スイッチが入ると厄介でもある。
「だったら婆に聞いてみる」
 今から足を運ぶ――あわや暴走となりかけたところを、
「年寄りは夜が早いからもう寝てるわよ。何迷惑なこと言ってるの!」
 朱音に一喝されて事なきを得ていた。
「ああ、それで夕食時に騒いでいたのか」
「うん。だから明日の朝一で婆のところに話を聞きに行くことにしている」
 答えは案外身近なところに転がっていたのであるが……
「ただ、ひとつ問題なのは“ニシキギ”の家が絶えたとされていることだ」
「絶えた? どうして」
 早智は意外な言葉に顔を上げる。
「何しろ随分と昔の話だからねぇ」
 それほど詳しくないのだと、九郎は歯切れ悪く語った。
「彼らは自らの意思で血筋を断ったのだという」
 絶えた。自らの意思で血筋を絶った……“ニシキギ”は自身の血が後世に残ることを望まなかったというのか……
「そうなんだ。だったら……」
 諦めるしかないだろう。ただ、それで颯斗が納得してくれれば良いのだが。
「とはいえ、これは俺が知らないだけで、里長あたりに聞けば何か出てくるかもしれない。“ニシキギ”ほどの家系が絶えるのをそう簡単に許すのだろうか?――という疑問もある」
「え?」
 いかにして颯斗に話すかを考えていた早智は、二転三転する話に困惑の表情を浮べた。
「じゃあ、まだ可能性は残されているっていうこと?」
いつも淡淡としている彼の百面相がよほど面白かったのだろう、九郎は短く笑い、そして「すまない」とわびた。

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