花守綺譚  〜 だから僕は楽園を夢見る 〜 6


5.
 花守塾を出て左へ曲がる。道は二手に分かれ、一方は集落へ、もう一方はより山の奥深くへと続く。
 ブナ科の木々が鬱蒼としげる、昼でも暗いその閑道を抜けると、やがて道は研究所の敷地へと入った。
《花ノ木製薬・花守研究所》
門柱にはそう記されている。
 元々、花守塾はこの研究所の敷地内にあったのだという。公には手狭であることを移転の理由にしたらしいのだが、過度な隠蔽はかえって危険だとの判断がそれを後押ししたのだそうだ。
 案外、人の目とはそうしたものなのかもしれない。姿に差異はないのだ。ならば、平然と横に並ぶ者を誰がはなから異質だなどとしようか。
 花守の中であれば大人たちの目は行き届いている。嘘とも本当ともつかない土着信仰を隠れ蓑にして、花守の里は子供たちを守り育てる。
 早智は研究所の裏に回った。温室がある。鳥籠にも似たそれは、年代ものだが規模は大きい。
 ひとりで来るのはいったいいつ以来のことだろうか。
 最初のころはよくここへ来て時間をつぶした。集団生活に窒息しそうだった。颯斗ともはじめから親しかったわけではない。
 早智は、他の子供たちと違い親元で育った。母親が頑として手放さなかったからだ。  破天荒な両親と共に日本中を回った。死に別れて一年と四ヶ月。去年の今頃はもう花守にいたのだと思うと、何もかもがあまりにも遠い。
 温室は思ったほど暑くなく、ほんの少しだけじっとりとしたものが早智の肌をひたした。
 何年か前、台風で破損したという南側は、まだ壁面の硝子が外されたままだ。荒れ放題とはいかないまでも、あざやかな花が乱雑に咲き、どことなく廃園のおもむきがあった。何故かしら落ち着く、そういう場所だった。
 しかし、意外な先客に早智は足を止めた。
 はるか頭上、球状に組まれた鉄枠に腰をおろして、どこか遠くを見つめている少年。  虎太郎がいた。
 早智の入室に気付かないのか。いや、扉は建て付けが悪く耳障りな音をたてた。ならば、それが虎太郎の意思ということか。
 嫌われたものだ。早智は苦笑いする。
 けれど、仮に自分が虎太郎の立場だったら――
 何故だかよくわかる。放っておいてほしい、そのひと言につきるのだ。
 だから、これはきっと颯斗の影響だろう。
「虎太郎君」
 と、早智は声をあげた。
 以前早智は颯斗に言ったことがある。
 うわべだけなら何の意味も無い。
 颯斗は大きく首を振り、
「違うって、人間として最低限の礼儀だって」
 と、かたくなにそれを譲らなかった。
 虎太郎の反応は無く、早智は奥の茂みへと向かった。引き返すのも間が悪い。散策してそのまま裏口から出ればいい――そう思った矢先、背後で、たんっ、という軽い音がした。
 振り返るとすでに虎太郎の姿は無く、生い茂る緑の間に、走り去る山吹色のシャツが見え隠れしていた。
 ため息がひとつ、こぼれた。


 夕闇に立ち込める薫香。
 静かだった。颯斗がいない、ただそれだけで早智の日常はこうも違う。無論、それはいかに颯斗が騒がしいかを証明するに等しいのだが、そう思うと少し笑えた。
 温室を一巡したところで空を見上げる。すでに星があった。帰れば丁度夕食のころか。
 ムササビかコウモリか、木の上で何か小物の飛び立つ気配があった。
 森は一段と暗く、闇は早智をより深いところへ誘うかの錯覚で迎える。道が大きく右に折れていること、先を見えなくしていること、それが錯覚の原因だろうと思われた。
 山の夜は濃い。昼のうちは辛うじて人間が握っている地上の主権も、ひとたび闇が降りれば何か得体の知れぬものの支配へと移る。
 人が山を開いて街を築くのはそれゆえのことだろうか? そんなことを考えながら坂を下っていた時、早智の目は道端でうずくまる人影をとらえた。
 虎太郎がいた。
 あれからずっとここにいたのか。
 早智は己の不明を恥じる。
 颯斗なら……そう颯斗なら、きっとすぐにでも事の重大さに気付いただろう。
 あの場に虎太郎がいたことも、ましてあんなふうにして鉄枠に登っていたことも。
 早智や颯斗なら苦もなくたどり着ける距離も、ひと蹴りの跳躍で事足りる高さも、虎太郎の体にはどれほどの負担だったことか。
「おぶるよ、つかまって」
「いい、操叔母さんに来てもらう」
「今日は操さん出掛けていていないんだろう? 帰りは遅くなるって。今朝会った時にそう聞いたんだ。花守を出るところで一緒になったから」
「……」
「意地張ってないで、ほら」
 虎太郎の嘘を突いたのは逆効果だったかもしれない。意固地になられてしまってはことが難しくなるだけだ。けれど、早智も引き下がるわけにはいかなかった。
 しばらくは無言のままで待った。
 やがて、暖かいものが早智の背に触れた。
 虎太郎は軽かった。いつだったか颯斗が、「あいつ、どんどん華奢になる――」、と危惧を口にしたことがあったが、今背負ってみてよくわかった。肩越しに回された腕が驚くほどに細い。
 背中にいる少年は一族の業を背負わされている――
 まだ、早智が両親と共に暮らしていた頃のことだ。父は仕事柄一族の裏事情にも通じていて、それはたまたま早智の耳にも聞こえてきた。
「禁域に踏み込んだ大馬鹿者だ」
 寡黙な父のめずらしく見せた憤りが、今でも早智の脳裏にはっきりと焼き付いている。
 難しいことはわからない。ただ、虎太郎は胎児の段階で何らかの被験者とされ、彼が生まれ落ちた瞬間、その実験は失敗に終ったのだ。
 最初の告知では、生きて十年。与えられたものは、とうに尽きている。
「今、花守塾ではおかしなことが起こっているって、知ってるかな」
 長の沈黙を経て早智は言った。同じ気質の少年がふたり、先に折れたのは早智だった。 早智は、遅まきながら颯斗の気持がわかったような気がする。虎太郎は昔の早智で、早智は今颯斗の立場にいる。
「大勢が眠ってるんだ。今日はついに颯斗までだよ。繭ごもりだっていうけど、本当かな。省吾に弥彦に和彦、みんな年齢も上だし妙な感じだ。しかも颯斗なんて最年長なんだ。きっと後で朱音ちゃんにいじられるよ。そうなるのが嫌で心配していたんだけどね、残念。やっぱり眠っちゃった」
 集落の明かりが見えた。沢の音が近づき、虫の音をかき消す。
「花守塾に行くけど、いいかな? 先生に診てもらおう」
 虎太郎の首がこくんと折れた。そして、
「みんな、起きたくないんだよ。だから眠ってる。眠ってれば嫌なことなんてないから、だから起きない」
 しばらくした後、早智は「そうだね」と答えた。

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