花守綺譚  〜 だから僕は楽園を夢見る 〜 8


「すまぬ。こちらの方に手間取ったわ。お主はなれておろう?」
「いきなりなんだもの、あせったわ。動こうにもぐるんぐるん回っちゃって。泳ぐのとは感じが違うのね」
 朱音はおぼつかない足取りで歩く仕草をして見せた。
「ここは颯斗の中?」
「そう。滅多に見れるものではないからの。後学のためにも存分に見ておくがよい」  とはいえ、視界にあるのは朱鷺子と朱音、そして自分、あとは距離感すらつかめない一面の白色ばかりだったが。
「心の中ねぇ……こういうのって、本人の意識がそのまま出るのかしら。それとも婆様みたいな媒体がイメージとして見せるのかしら。どのみちまっ白だからわからないけど、これってやっぱり繭ごもりだからなの?」
「いや、心が居らぬからじゃろう。前にも何度か寝ぼすけを起こしに行ったことがあるが、こういった状態はこの婆も初めて見る」
 声は宙で鳴っているのか、はたまた互いの内側に響いているのか。今は三人でいるからいいようなものの、仮にひとりで取り残されるようなことにでもなれば、襲い来るのは恐怖感かもしれない。ここにはそう思わせる何かがあった。
「婆、いないってことは外に出たんだろうか」
「おそらく」
「ねえ、待ってよ。それって簡単にできることなの?」
 驚いたふうに朱音が言う。
「できると思うか?」
 朱鷺子の問いに早智は頭を振った。
 できるはずがない。それは早智が誰よりもよく知っている。三年前ならいざ知らず、今はもうこんなにも体が重い。
「無理だよ。あれができるのは、本当に子供のうちだけなんだ」
 女なら巫、男なら覡。はるか遠い昔より、その能力の特異性からより神の血に近しいとされてきたもの。
 まだ、鮮明に覚えている。
 鳥のように、蝶のように、風にのり宙を舞う。体の重さなんて微塵たりとも感じさせない。どこまでも、どこまでへでも飛んでゆける。
 もっともっと、行ってみようか――? 天空の光彩に体を散らして、澄みわたる月光に体を透かして、このまま空の構成物として溶け出してしまったら、いったいどんな感じがするのだろうか――?
「だいたい、颯斗も和馬も覡だって話は聞かないよ。仮に日織か美月がそうだとしても、女の子ならもっと大きくなってからでないとこの力は使いこなせない。だから、繭ごもりの時と同じさ。年齢がね、合わないんだ」
「だったら、なお更……」
 どうしたというのだ。どうして颯斗の心はいなくなった? 朱音が不安そうに辺りを見渡す。その意思の強そうな眉に今はじめて困惑の色が浮んだ。
「誰ぞ助け手がおればできるかもしれんの。ほれ、ここにこうしてお主らを連れ出したように」
 朱鷺子は鈴を転がすような声で朗々と言った。黙ったままの早智たちに気遣ったのか。はたまた、一足飛びに事のからくりに気が付いたのか。
 目を細め、はるか遠方を見つめる朱鷺子の顔に憂いは無く、その横顔はいつも以上に若々しく見えた。
 おそらくは後者だろう――
 早智は思う。わかっていたからこそ、ここにこうして早智と朱音を連れて来たのだ。ならば、聞いたところで容易に答える朱鷺子ではない。ここから先は自分たちで考えるように、そう言っているに違いなかった。 


 その夜早智は夢を見た。
 まだ昼間の離脱が余韻として残っている。軽やかに、のびやかに、昼間の雨が洗った空を、下弦の月が照らす静寂の世界を、思いのままに舞う、そんな夢だった。
 上方とは異なる方からふく風がわずかに残った群雲を散らすと、早智の心はサワとざわめいて、このままもっと高くへ、いっそのことまだ見ぬ成層圏の果てへでも駆けて行こうか、そんな衝動にかられるのだった。
 きっと、夢ならば叶うだろう。早智の力はもうわずかしか残されてはいないけれど、夢ならば記憶にある感覚をたよりに、早智を無限の世界へと導いてくれる。
 もう、止める者はいないのだから。
 幼いころはどこまでへでも行こうとする早智を、いつの間に追って来たのか母親の白い腕が抱き込んで止めた。
 知らないよ。置いて逝く方が悪いんだ。
 空が、月が、風が、早智を誘った。
 と、その時。はるか前方をロケット花火にも似た青白い光が走った。早智は進路を右に変えて後を追った。  誰だろう――
 早智の夢にもう一人の人物が現れたのだ。
 誰だ? いったい誰の夢を見ている?
 近づくにつれ、輪郭があらわになる。蝶の鱗分にも似た粒子をきらきらと散らして、細身の後姿が早智の前を行った。
 そして、まるで早智が追いつくのを待っていたかのように、それは動きを止めた。二人の位置が上下逆さまになる。
 見下ろす形の早智と、見上げる形の少年と。
 少年は、早智を見て笑った。不敵とでも言おうか、不思議の国にいる縞柄の猫よろしく口もとを歪めて笑った。
「―――……」
 名を、呼んだと思う。さだかでないのは早智の意識がそこで途切れてしまったからか。
 けれど、目覚めてもなおはっきりとおぼえている。
 少年は、虎太郎の顔をしていた。

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