kitan

二月寓話 4

3.

 午前十時。二階から庭先を見下ろしていた夏は、門をくぐるのが颯斗だとわかるや否や部屋を飛び出して玄関に向かった。
「迷わなかった?」
 大まかな説明はしたものの、このあたりは道が入り組んでいて、地元の人間ですらややこしく思う。
「少し迷った。でも、風見鶏の洋館だって言うとみんな知っていたから、その都度聞いてきた」
 どうやら迷ったのは少しどころではないらしい……
 けれど、無事にたどり着くことが出来たのだ。「良かった」、と言うに止めて夏は颯斗を家の中に招き入れた。
「早智は?」
「ああ、あれはダメだ。起きやしねぇ。終いには昼からにするとかってぬかしやがるし、置いてきた。明日にはもう帰らなくちゃいけないってこと、わかってんのかなぁ」
「三連休で良かったね」
 夏が颯斗を自室に案内しようとすると、階段下の物置から出た白髪の老女と行き合った。
「まあ、お客様ですか」
「うん……友達の友達」
「祖母ちゃんか?」
 颯斗が聞いた。
「ううん、違うけど、身の回りのこととかしてもらってる、蔦さん」
「さあ、お茶をお出ししますからあちらのお部屋へどうぞ。お二階より広くてようございましょう?」
「でも、」と言おうとして口ごもり、夏は言われるがまま颯斗を客間へと導いた。
「すっげぇなぁ」
  ぐるりと室内を見渡した颯斗が感嘆の声をあげる。流線状に配された細やかな装飾。天窓のステンドグラスに花の意匠を見たとき、この部屋全体が植物をモチー フに作られているのだということがわかる。時間に燻された鈍い光沢。その下には今もなお建築当時の空気が濃厚に息づいている。
「アール・ヌーヴォーっていうんだっけ? こういうの。さっき会った和服姿の婆ちゃんといい、なんだか大正時代にでも迷い込んだみたいだな」
「そうかな?」
 暗くて重くてあまり好きな家ではないけれど、颯斗の反応が上々なのはなんだか嬉しく思う。
「まあ、夏にお客様なんてめずらしいこと」
 二人同時に天を仰ぐと、螺旋階段の降り口に立ち、微笑みを湛えながら見下ろしているその人に行き着く。
「麗     姉さんだよ」
 夏が颯斗に教える。
 長く伸ばされた黒髪が彼女の動きに合わせてゆるゆると踊る。白のワンピースも青紫のショールも、どちらかというとシンプルなデザインのはずだが、彼女が身につけた途端華やかさを増すから不思議だ。
 颯斗が無言であることに気付き夏が横を見ると、階段を下りてくる麗を見つめていた颯斗は、「ほぉ」とひと息ついて、
「ほら、あれだ。クレマチスとかっていう花、あんな感じだ」
 そう言った。
 華やかに咲く大輪の風車。
「お上手ね」
 麗はたおやかに笑った。

 昨日よりはいくらか暖かいだろうか。それでも空は変わらずの曇天で、二月の日曜日はひっそりと灰色に沈む。
 麗がバロックの音楽に針を落としたようだ。物悲しいチェンバロの音色が微かに聞こえる。甘いタルトの香りに、温かなアッサムの紅があざやかだった。
 颯斗はソファーの縁に頬杖をついて、何をするでもなく庭のほうを眺めている。あのあたりは初夏になれば薔薇の花が咲く。颯斗の言っていたクレマチスの花も鉄柵に多くはわせてあった。
 夏は颯斗の横顔を見ていた。気取られぬように視線をそらすものの、すぐにまた気になり見てしまう。
 颯斗の輪郭は颯斗の形でしかない。感情の波が見えない。あの忌々しい光を、颯斗の姿には見ることができないのだ。
 早智もそうだ。学校中でただ一人、早智だけが夏に心の中を読ませなかった。
     「いいよ」、なんて簡単にうなずかないでほしい。本当はそんなこと思ってもいないくせに     
     わからないだろうと見くびらないで。君たちが思っているほど鈍感じゃないんだ     
     ねえ、お願いだから、そんなふうに笑わないで     
     浅はかになんて、笑わないで     
「どうした?」
 ん? と小首を傾げて颯斗が見ていた。夏はあふれようとする記憶を無理矢理ねじ込んで、なんでもない、と頭を振る。
「なあ、家族って他は誰がいる?」
 夏が紅茶を注ぎ足すと、颯斗が向き直って言った。
「いないよ。麗と煌、それに蔦さんの四人で暮らしてる」
「親はどうした?」
「さあ、いないんじゃないかな」
「いないってことは、ないと思うぞ」
「でも、会ったこともないし、知らないよ」
 颯斗はそこで押し黙った。時計の音がやけにはっきりと聞こえる。夏はティーポットを盆に戻すと顔を上げた。
「ねえ、早智とは親戚か何か?」
「そうだなぁ、大元をたどればやっぱそうなるかなぁ。一般的な親戚とは違うけど、同種? 同族? 同じ根っ子から枝分かれしたとでもいうか……まあ、大雑把にはそんな感じだ」
 同族。
 颯斗の言ったひと言が、夏の心に波紋を投げかけた。
 だから彼らからは色が見えないのか。そういう種族がいるのだ。ならば、自分のように人の心の動きを色でとらえるという、そんな種族もいるのだろうか?
「羨ましい。三年前の早智はひとりだったけど、今は君と一緒にいるし、君らはとても近い感じがするから。本当にいい巡り会わせだったね」
「そうか、夏は淋しいんだな」
 唐突に言われ、夏は顔を上げた。
 淋しい    
 そう呟いたのは夏だ。けれど、それは心の内でのことであって、あっさりと気取られるほど強く言葉に感情を込めたつもりなどなかった。それなのに、どうしてわかったのだろう?
「わかるさ。ほら、全部出てるだろ? 淋しい、淋しいってさ。青くて冷たい……」
 それは、夏の体から立ち上るオーラの色だった。夏は両の手のひらをひらいて見る。青くて冷たい、今にも凍てつきそうなアイスブルーが滲んでいた。
「泣きたいときってそうなるよな。小刻みに震えてさ」
「見えるの?」
 夏は問うた。
「見えるさ」
 颯斗は答えた。
「なんで?」
「『なんで』って、同じだからさ。俺も早智も、そしてお前も」
「だって、君たちからは見えないよ。早智だってそうだ」
「そりゃあ、俺らは見せないように気をつけてるもんよ。だってさぁ、失礼だろ。考えてること全部さらけ出すなんてさ。見せられた方も迷惑ってもんだ。礼儀だよ、礼儀」
「できるっていうの、そんなことが……」
 驚きにうまく思考が定まらない。
「おう。訓練だ。ガキの頃から徹底してたたき込まれる。コントロールするんだ」
「じゃあ、逆はどう? 見ないようにするっていうのは? どう? できるの?」
 夏はわずかに声のトーンを上げた。
「それはちょっと、難しい相談だな。なんだ? 見えないようになりたいのか?」
 それは……そうだ。
「そう思ってた。いっそのこと見えなければいいって。知らなければ知らないでいい。その方がきっと、生きていくには楽なんだ」
 夏は、心もち浮かすようにしていた腰を再びソファーに沈めた。
「見えないってのは、あれだ。相手を信用しなくちゃいけないよな。もしかしたら別のことを考えてるかもしれないって、そういう人間も沢山いるけど、どこかで踏ん切りをつけて飲み込む。できるか?」
 わからない。夏は頭を振った。わからない……けれど、少なくともあの頃の早智にはそれができた。夏は早智の心を知ることができなかったから、その気安さに縋って早智と一緒にいた訳ではない。
 好かれたかったから、嫌われたくなかったからこそ、少なくとも早智に対してだけは真っ直ぐでいようと思った。
 夏が軽蔑する浅はかな人間たちとは、けっして同じにはならないと強く心がけるようしていたから。
「君たちは、何? 人間じゃないの?」
「人間さ。化物じゃない。でも、俺たちは“伽羅”だ」
「きゃら?」
「そうだなぁ、白人とか黒人とか、アングロサクソンとかモンゴロイドとか、そういった分類のひとつなんじゃねぇの? よく知らないけど」
「僕もそうなんだ?」
「……多分」
 少しためを持たせるように言って、颯斗は笑った。
「驚いたか」
 小さく息を噴いた夏は、笑いをかみ殺して、テーブルの淵で組んだ手の甲に額をあてた。
「驚いた。でも、どうしよう。なんて言うか、その……」
 うれしい。
 夏の色が、冷たいアイスブルーから柔らかなセルリアンブルー(空色)へと、変った。

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