kitan

二月寓話 6

4.

 時間は少しだけ遡る。
 意識が何かの形をなぞっている。それが時計で、さっき一瞬だけ目を開いた時に見た光景だと理解するには、少しだけ考える時間が必要だった。長い針が下の方を向いている。十二時半? いや、もしかすると一時半かもしれない。
 どうしてそんな時間に眠っているのか。
 夏はねっとりと絡みつく睡魔の淵で、可能な限りの抵抗を試みていた。
 起きなくては    
 切実にそう思うのに体がいうことをきかない。
 鮮烈につきまとうのは赤い色のイメージ。毒々しいまでの赤が、睡魔の下側で幕を張り、夏が意識を手離すのを今か今かと待ち構えている。
 ああ、あれは苺だ。
 苺苺苺。
 苺苺苺苺苺……
 苺を食べたのだ。颯斗と二人。
「いかがいたしましょう、姫様」
 蔦の声がする。
 なんとかして動こうとしてもだめだ。渾身の力を振りしぼっても、指一本、目の上の薄皮ひとつ思い通りにはならない。
 それでも夏はあきらめることなく、どうにか状況を掴もうとして全神経を耳に集める。
「こんな子でも使い物になりましょうか?」
 もう一度蔦が言った。
 こんな子? こんな子とはなんだ?
「い いえ、無理です。ほら、ごらんなさい。この子の放つ気はこんなにも明るい。どうすればここまで真っ直ぐに育つのか。よほど環境にでも恵まれていたのか。ど のみち私たちが宿ろうとするにはあまりにも光が強すぎます。焼かれて死にたいのですか? それなら別に止めはしません」
 蔦は「滅相もない、滅相もない」と怯えるように言葉を重ねる。
“こんな子”とは、もしかして颯斗のことか? 
 そして“姫様”は、この声は……
 煌だった。
 声だけを聞くと、とても大人びて聞こえる。改まった口調のせいかもしれないのだけれど。
「何かの時の備えにとでも思いましたが、使えませぬか。ならばやはり、いつぞやの子供を捕らえておくべきでしたな。宿主として“伽羅”が手に入るなど滅多にないこと。いやはやまったく、惜しいことを致しました」
「それも無理です」
 煌がきっぱりと言う。
「あの子供は孤独を苦にしてなどいない。ひとりを恐れないものに我らは同化することができません」
 宿主とは何だ? あの子供とはいったい…… 
 ああ、わからないことだらけだ。
 いま一度夏は瞼に力を込める。ほんの一瞬の隙間に煌の横顔を見た。
 麗がクレマチスなら煌は薔薇の花がよく似合う。小さいけれど、無数に咲き乱れる淡紅色。いつの家の玄関にも決め事のようにアーチに絡ませてある。あれは早咲きだから、もうすぐ新芽が動き出すはずだ。
「しばらくはこの身柄預かることにいたしましょう。私はあの子供と会ってきます。切り札としては上等」
 それから    
 含みを持たせるように言って、煌は夏の横に立った。
 甘く、優しい声が降る。
「夏。あなたの家はここです。どこへも行く必要はありません。ずっと一緒です。約束しましたね、夏。覚えていますか?」
 煌の柔らかな指が、夏の頬にひたりと触れた。


 暗くて深い森の中だ。歩くように言われたから歩いている。
 でも、誰に?
 それを思うと心が痛んだ。じくじくと、足元を覆う濡れた朽葉のように痛むのだった。だから、振り返らずに歩いている。
 滑って転んでお腹もすいた。もういい加減何もかもが嫌になって、泣いてしまおうか、駄々をこねてしまおうか、そう思った矢先、暗い木々の向こうから何やら不思議な音楽が聞こえてきた。
 ひゃらら、ぴいひゃら、たたんた、たんた……ひゃらら、ぴぃひゃら、かかっぽ、かっぽん。
 辛うじて記憶の片隅にある。あれは祭りの時に聞いたお囃子に似ている
。  仄白い光が木々の合間に見え隠れしていた。追いかけなければ。追いかけて、つかまえて、助けてもらわなければ。
 急がなければ行ってしまう    
 木の根に足をとられて転んだ。地面には少しも真っ直ぐなところがなくて、草や木や何かしらが行く手を阻む。気ばかりが急いた。月明かりなどあてにならず、がむしゃらに走って足を踏み外した。

 次に気付いた時は誰かの腕の中にいた。大きな車輪が目の前に迫るのを思い出し、途端に怖くなって泣いた。
「よもや、こんなところで“伽羅”の子供を見つけようとは。本当に姫様は強運をお持ちにございます。何やら人の道では騒動が起こっている模様。そこからでもはぐれて来た子なのでしょうか」
 蔦だった。後ろには麗がいる。ふたりとも雛飾りにでも見るような、妙に古めかしい衣装を着ている。その他にも何人か、三人官女か五人囃子か、艶やかな装束を身に着けた者たちが薄明かり下で佇んでいた。
 奥の方には牛車が見えた。大きな車輪がてかてかと篝火に照らし出されて、あれに巻き込まれたのかと思うと、怖くなってもう一度泣いた。
「これ、動いてはなりませぬ。まだ傷の治癒が完全ではないというのに。大丈夫。大丈夫です。この姫が拾うたのです。悪いようにはいたしませぬ」
 あやされて顔を見た。
 ああ、これは煌だ。
 大人の顔をした女の人だけれど、けれど、この顔は煌だ。
 髪も今のように短くはなく、後ろに長く伸ばし波打っているのだけれど。
 けれど。
 けれど、けれど、けれど……
 忘れていた、今まで。

 けれど、これが煌との最初の記憶だった。


inserted by FC2 system