kitan

二月寓話 7

 髪をすく指の感覚にうっとりとする。心地いい芳香に包まれて、眠りのふちを行っては戻り、戻ってはまた行き……
 夏    
 なめらかなアルトが呼ぶ。
「起きられますか? 夏」
 のぞきこまれて、長い睫毛を間近に見た。
「麗……?」
「はい」
 麗が嫣然と微笑む。
 夏はゆっくりと体を起こした。緩慢ながら動かすことができる。ただし、偏頭痛のひどさに顔をしかめた。
「煌は……?」
「出掛けました」
 時計は一時三十五分。薔薇の装飾があしらわれた時計、その文字盤の上を黒く長い針がするりと動いた。
 ここは夏の部屋で、颯斗の姿はない。いったいどこからが夢で、どこまでが現実なのか……
「記憶を解いてくれたのは麗?」
 ずっと忘れていたのに。思い出させてくれたのは何故だ?
 麗は答えない。
 夏は立ち上がると、ふらつく足取りで窓の方へ向かった。眼下に庭を見下ろす。冬枯れの庭も春の訪れと共に一斉に芽吹くだろう。いくら住まいを変えようとも魔法のようによみがえっては夏の視界を閉ざしてしまう。長い蔓と鋭い棘に覆われた鬱屈の庭。
「ねえ、大人だった煌が子供に戻ってるって、どうして? いったい何があったの? 僕たちはどうして双子として育てられた?」
「あなたの傷を治すためには、少し多くの力を必要としましたから。姉さまは元の体を保つことができなかったのです」
 え     と短くつぶやいて、夏は麗に向き直った。
 麗は今なんと言った? 傷を治すため? 元の体?
「姉?」
「そうです。煌は私の姉です。遠い昔から、ずっと」
「煌は僕を助けるために力を使いすぎた? だから大人の体を維持できなくなったって、そういうこと?」
 麗が頷く。
「気にする必要はありません。私たちは大元が絶たれでもしない限り死にはしませんし、煌もじきに元の姿に戻るでしょう」
「でも……」
「身近にいることで、あなたを監視したいという思惑もありました。それにあなたに傷を負わせたのは私たちの不注意。おあいこです」
 斜面で足を滑らせ、牛車の前に転がり出たのだ。助けてくれたのは煌……
「夏。あの少年はこの家の中にいます。探し出して、連れて出なさい。この家を出なさい、夏」
「……麗?」
 歩み寄る麗がそっと夏の手を取る。そして、もう片方の手を伸ばすと、夏の胸に触れてくるのだった。
「私たちは人の言葉で言うなら“妖”」
「あやかし?」
「そう。孤独な心に宿る因果な生き物です。不安や寂しさといったものを糧にして生きる。植物が陽の光を受けるのと同じように、私たちはあなたの苦悩から力を得ているのです。夏」
「僕の、苦悩……?」
「あなたは私たちの世界を照らしてくれていた、暗い太陽」
 麗が体を引いた。離れてゆくぬくもりと分かれがたくて、夏はすかさず言葉をつないだ。
「だったらどうして」
 どうして、僕を手離そうとする?
「“伽羅”は多感ゆえに傷つきやすくもあり、ならばこそ、私たちに都合良くもあるのですが、人の心とは常に移り変わるもの。夏、あなたはもう違っているでしょう?」
「でも、だからって、僕は……」
「夏。伽羅はとても長い時を生きます。それでも、私たちの寿命はもっと長い。たとえあなたが天寿をまっとうすることになったとしても、私たちはまだその先を生きなくてはなりません。だから、あなたが気にすることはないのです」
 さあ、と言って麗は夏をうながした。
「姉さまが戻らないうちに、早く」
「麗っ」
「何事にも終わりは来るのです、夏。たとえ、このままあなたを無理に引き止めても、それはお互いにとって不幸しか生まない。だから」
 そんなことはない    
言おうとして夏は、それを口にすることができなかった。誰よりも限界を知っているのは他でもない夏自身なのだから。
「だから、早く。少年は“あなたの開けてはいけない部屋”にいます」
 三度振り返って麗を見た。その度に麗の顔は泣き顔に変わってしまいそうで、四度目を振り切って夏は階段を駆け下りた。


 何度住むところを変えても、いつの家にもその部屋はあった。
「いいですか、夏。ここにある扉をあけてはいけません。この部屋には災いが封じこめてあるのです。解き放ったが最後、何もかもが壊れてしまいます」
「壊れる?」
「そう。私たち家族は離れ離れになって暮らすことになるでしょう」
 麗に代わって煌が言う。
「私たちはずっと一緒よ。だから約束して頂戴、夏。この扉には触れないって。麗姉さまと私に約束して」
 昔読んだ本にそんなお伽噺があった。翁は好奇心から襖をひらいてしまうのだ。だったら夏はなんのためにそうする? 何のために約束を破ろうとしている? 颯斗のためか? 早智のためか? それとも夏自身のためか?
 いつも違う、哀しいほどに違う。
 同じ人間の形をしているのに。他の皆は簡単にできていることなのに。
 早智といる時は少しだけ空気が和らぐような気がした。
 同じ匂いがする。
 颯斗に会ってそれが確信に変わった。
 ああ、やはり僕は普通じゃなかったんだ。そして、煌や麗とも違う生き物なんだ。だから、どこを探しても居場所がなかったんだ。
 ずっと、ずっと、帰りたかった。
 絶える事の無い水のイメージ。
 それはきっと、僕がいてもいい場所。

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