けれど、残念ながらこちらもその程度のことで怯むようなタマではない。木の幹に体を押し付けられながらも、上目遣いに相手を見据える。幸い雲も晴れて、清かな月明かりに互いの顔が浮んだ。
「だから、好みじゃないって言ったでしょう?」
「うん、でも、この際好みとか関係ないんだ。だって、君たちは長命の一族だろう?」
よくご存知で。
けれど答えてやる義理も無い。朱音は無言のまま視線を強くする。受ける慶介は余裕なのか笑みすら浮かべて見下ろしていた。
しかし、どうしてわかったのだろう――?
確かに、入学してからというもの彼、石橋慶介は頻繁に朱音の視界に映り込んでくるようになった。初めは遠巻きに見ていたものが次第にその距離を詰め、執拗なまでにつきまとわれるようになったのは夏休みがあけてからのことだ。最初から知っていたのか、それとも過程で何かを掴んだのか。どちらかはわからないにしても、痛手であることに変わりはなかった。秘密を知られたとあれば大失態。ならば、理由の一端でも自らの手で掴んでおかねばなるまい。
「長命? それで? 私がそうだとしたら、なにかいいことでもあるの?」
辛うじて自由になる右肘を折り、朱音は慶介の頬に触れた。
別に誘っているというのではない。反撃の隙を伺うがために。
うん……と、とろけそうな顔で慶介が頷く。
あのー、なんかこの人いっちゃってるような感じなんですけど?
大丈夫か、こいつ?
先から視点が定まらなくなってきているとは思ったが、一対全体何が望みだ?
伽羅を長寿と知り、朱音をそれと見抜いた男は、熱にでもうかされたかのような声音でうっとりと言った。
「だって、君ら長命の種族を食べると、その分の寿命を自分のものにすることができるんだろう?」
そっちか!
朱音の中で話の符合があった。どうりで誉が来ているはずだ。
これは彼の、<譲葉>の仕事だ。
けれど、何故? 結界が破られたという話はきかない。ならば<奴ら>はここに立ち入ることができないはず。だからこそ、花守は隠れ里になり得たのではないか? それなのに、何故?
――あんまり利かないんだけどね。一応無いよりはマシっていう程度で――
そう言って手渡された護符もきちんと身につけている。
本当に利かないわけね……意味ないじゃないのよ!
「何? つまり、あんたがアタシに言い寄っていた訳って、それ?」
「そう」
「下心見え見えで、随分不快な思いにもさせられたけど、何? 食欲?」
「うん、食べたい」
笑うな!
「本当はもう少しの間そのいい匂いを堪能させてもらうつもりだったんだけどね。でも、妙な男にこねくりまわされた後なんて嫌だから、今のうちにいただかせてもらうことにしたよ」
なんでアタシが誉にこねくりまわされなくちゃいけないのよ!
おまけに― イタダカセテモラウコトニシタ ―って、何? もう決定事項なわけ?
ふざけないで頂戴! ときつく目をくれた慶介の体からは、とろりと淀んだオーラ、<蛍光色を孕んだディープパープル>が湯気のように立ち昇っている。
――其れ、人であって人に非ず――
恍惚の笑みを浮かべた口元に光るのは、まるで犬歯とでも見間違うかのような異形の八重歯。
――其れ、人であって人に非ず――
爪が、喉にギリリと食い込んでくるのを感じた。
「いやあぁぁぁあああぁぁぁぁあぁぁぁああああああっ!」
「はい、そこまで!」
制止の声にも気がつかない。
「朱音ちゃん、朱音ちゃん、それ以上やると死んじゃうから」
力任せに投げつけて、手近な木の枝でこれでもかと打ち据えた。
慶介の顔は朽葉に伏していて見えないのだが、代わりに腰につけられた狐の面が上を向いて笑っている。その薄っすらとした笑みが癇に障っていま一度枝を振り上げたところ、後ろから伸びてきた手に抱き止められた。そして……
ようやく、朱音の時間が流れはじめた――
「九郎……誉さん……?」
途端、体中から力が抜けたかと思うと、わなわなと崩れるようにしてへたり込んでしまう。
なんで? と、聞きたいのは山々だったが、言葉にすることができない。「平気?」という九郎に問いに頷くのがようやく。
「あー、やっぱり、コレただの人間ですねぇ」
誉は慶介のことを調べているようだ。
「え? でも犬歯が……」
「見間違いじゃないかな? 異形化の痕跡無いよ、ほら」
わざわざ口を開けて見せてくれる。
「すぐには戻らないんだよ。出すのは一瞬でも、戻すのはやっかいみたいだから。構造的な問題だね。そのあたりのことは<スズカケ>が詳しいから興味があるようなら聞いてみるといいよ」
「いや、いいです……」
見間違い。まあ、そんなこともあるのだろう。つまり、それほど激しく前後不覚に陥っていたということか。
情けない――
朱音は密かに瞑目する。
「“接触”も、そう近いうちのことではないみたいだし……でも、感染しているってことは、“元”がこのあたりにも潜んでいると思うべきか。それならもう少し濃厚に臭ってもいいはずなんだけど」
しばし、考える素振りを見せた後、誉は再び慶介の襟元あたりに鼻を寄せた。
「やっぱり、残り香程度だな。一年? いや、もっと前か?」
「その人……埼玉からの転校生」
「あ、どーりで」
納得がいったようだ。
「何? 普通の人間でも食べると寿命が伸びるの? そんな話聞いてない」
「まさか。そんなことになったら、我ら一族、ついにこの地球上では暮らしていけなくなるよ。ただ、どういう訳だか最近、一般人の食人行為が報告されていてね。まだ、詳しいことはわかってないんだけど、どうやら“やつら”が関わっているっていうことだけは確からしい。寿命吸収の能力はそのままに、人食いだけが伝染るんだ。でも、それはそれで厄介っちゃぁ、厄介な話でさぁ……」
仕事が増えるだの、人使いが荒いだの、どうやら日頃の鬱憤が溜まっているらしい誉がぶちぶちと言い始める。
「しかし、彼は色々と事情にも通じていたみたいだね」
「相手が余程饒舌だったんですかね」
九郎と誉のやり取りを聞きつつ、「寝物語にでも聞いたんでしょうよ……」、とは思ったが口には出さないでおく。そんなことよりも、だ。
「朱音ちゃんにね、妙な臭いがついているみたいだっていう話があったから。それでここのところあれこれと調べてはいたんだけど。大事に至らずに済んで良かったよ」
お兄さんたち、一体どこから聞いていたんですか……?
きっと彼らのことだ、朱音が里を出る時から、それとなく行動を見張っていたのだろう。
馬鹿馬鹿しいのであえて問うまでもなかったのだが。脱力と共に再度瞑目する。
気付きもしませんでしたよ。完敗です。
遠い……遠い昔の話だ。
彼ら一族の先祖は、天地創造間もないこの世界に降り立ち、安住の地を求めさまよい歩いたという。その後<束の間の平穏はあった……>、と伝えられてはいるが、それがどれほどのものであったかまでの記録は残されていない。
やがて、運命は彼らに受難を与える。天敵としか呼びようのない存在との遭遇。彼ら一族の歴史は、その身を喰らい寿命を我がものとする人食いの一族との攻防の歴史でもあった。
根無し草の一生。加えて、常に命の危険を感じながらの毎日。それを思えば、長寿も英知も体力も、決して割りに合うとは思えない。
だから大変なわけよ。
好き放題してるけどさ。
本当に色々と、大変なわけ……
「けれど通常、感染による食人症の場合は死肉の方に走るんですよね。これだけ大っぴらに生餌に喰らいつくのも珍しいって言うか、なんて言うか……ちょっとあれこれ聞き出す必要があるなぁ」
「今日のこととか、一時的な記憶封じは我々でもできるけど、きっちりと忘れてもらう必要があるし、ここはひとつ空木の婆にでも頼むこととしようか」
そうしましょう、そうしましょう、と頷きあう九郎と誉の背後で、へたり込み消沈していた朱音が顔をもたげた。
再び漂い出た薄雲に月光が明滅を繰り返している。
生ぬるい風が木立をゆらし、梟が「ホゥ」と鳴いた。
「何? 洗脳するの? だったら、アタシ、お願いしたいことがあるんだけど……」
「怖かったです……」
というのは後日の誉談。
「僕はやっぱり、女の子は物静かで可愛い子の方がいいです」
まあまあ、となだめるのは九郎。花守での穏やかな午後。
「好みは人それぞれだからね。きっと、あの子にもあの子の良さを認めてくれる相手が現れるさ」
……いつかね
過分に歯切れの悪い言葉ではあった。