Chapter.2-5
 わずかな沈黙の後、先に口を開いたのはヴァレンティーナ。
「理由を問えば答えてくれるだろうか?」
 コンラードは視線を伏せたままで答える。
「思いのほか父の血が濃く出てしまったようです。これまでは然程目立ちませんでしたが、今は少し……」
「まだわからぬ!」
 驚いたヴァレンティーナが咄嗟に触れようと指を伸ばす。けれど、その手はコンラードに届くことなく握り止められ、そして胸元にまで押し戻されてしまった。
「薬で押さえておりますが、いずれは明るみに出ましょう」
 離された手首の感触を確かめるかのように、自らの左手を添える。
 今は誤魔化せていても、その日は確実に訪れるということか。
「そうであるなら……ならば、致し方ないな」
 動揺を隠せないでいる自分に更なる戸惑いを覚え、窓際にまで足を進めると夕暮れ迫る茜色の空に視線を向けた。
「しかし、今そなたを失うのは痛手だ。もうしばらくは傍にいてもらわねばならぬ」
「はい。私が抜けました後、政務に支障を来たしませんよう整えましたならば」
「しかと頼むぞ」
「畏まりまして、ございます……」

 気持ち……悪い……

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

 ええい、気持ち悪いわ!
 あのようにかしこまった言葉など使いおってからに。
 そのような言葉遣いでかしずかれたら間違いなく気持ち悪いと、気持ち悪いと、気持ち悪いと!

 そう思ったからこそ、コンラードには自由であれと言い続けてきた。
   お暇をいただきたく……   
 暇……
 いや、自由になるのか。
 ひとり、この先。


「なにやら難しいお顔をされていますね。ヴァレンティーナの姉上。私の話は面白くなかったでしょうか?」
 サミュエルの声にはたと我にかえる。ほんの少しだけ、意識が浮遊していたようだ。
「いや、充分に興味深かったぞ。特にキバラダンゴムシの大量発生とその集団行動における考察は、着眼点も面白く一読の価値があると思われる。今後も研究を続け一冊の本にまとめるとよかろう」
 褒められたのが嬉しかったのだろう。少年はそばかすの目立つ顔にこの上ない笑みを浮かべ、大きく頷いて見せた。
「けれど、やはり今朝から元気が無いご様子です」
 それでヴァレンティーナの喜びそうな話を選りすぐって語ったという次第だが、後に様子を伝え聞いた三大臣はそれのどこに話のツボがあったのかわからず小首を傾げたという。
 ダンゴムシの話をすれば喜ぶだろうと思った少年。そして、ダンゴムシの話を好むだろうと思われているヴァレンティーナ……まあ、当人同士満足であればそれでよいわけだが、下手をすればこんな二人が次期大公とその配偶者。公国の未来にちょっとばかし不安をおぼえたとしても、誰からも責められたりはしないだろうと思う。
「そろそろ外で茶をいただくのも終わりにした方が良い季節になったかな」
「そうですね。紅葉が綺麗だけど、部屋の中から眺めて見るのも悪くはないと思います」
 手のひらに触れる茶器の熱が暖かく心地よい。
 触れることを拒まれた頬と、未だ手首が覚えている手のひらの感覚。
 そもそも、コンラードを選ばなかったのはヴァレンティーナ、己自身だったのではないか? それを今更、何を戸惑うことがあるというのだ。国のためとはいえ、心無い選択をしておきながらなおも仕えよとは、虫が良すぎる話だ。ましてや事情も事情、快く送り出してやればよいものを、いつになってもねちねちと……
   そもそも気持ち悪いのがいけないのだ。あれがガラにもない敬語などを使いよるから、未だこうして……
 こうして、胸が……
「あ、あれ!」
 むっつりと黙り込んだまま、次第に眉間の皺を濃くするヴァレンティーナを、ひとり向かい側の席で成す術も無く見つめていたサミュエルだったが、突然そう声を発したかと思うと、立ち上がり空を見つめたまま駆け出して行った。
「もしからしたら、ルリシジミモドキアオバタテハマダラ蝶の変種じゃないですか?! これ、誰か網を持て! 急ぎだぞ!」
 ヒラヒラと舞う青色の蝶を見失うまいと、庭先をひょこひょこ飛び回るサミュエルの横に、遅れてたどり着いたヴァレンティーナが立ち、その肩にそっと手を置く。
「止めよ。季節はずれの蝶だ。好きに行かせてやるがよかろう」
「でも……」
「空を舞ってこそ蝶よ。箱におし止めてしまえばその美しさも半減しよう」
 昔、まだこの体の自由が効かなかった頃のことだ。ヴァレンティーナのために苦労してコンラードが生け捕ってきた蝶を、無理を言い窓から解き放たせてしまったことがある。
 自由に生きよと思った。自由の効かぬこの身のために、わざわざ慰みものになってほしいとは思わぬ。
 自由に生きよ。
 そして広い世界を見てくるといい。
 それができぬこの身の代わりに。
「そなたも部屋にこもって本ばかり読んでいるのではないぞ。確かに本でしか得られぬ知識というものもあろうが、実際にそれを行い身につける知識というのも、人間が生きていく上で重要な糧となるのだ」

   約束じゃ。コンラード。大きくなりこの身が頑丈に育ったら、共に国を出て世界とやらを見て回ろうぞ。本に書かれていることが本当かどうか、この目でしかと確かめてやるのだ   

 体は頑丈に育ったが、過ぎし日の約束はもう……

 抜けるように高い秋色の空へ、青色の蝶がひとつ舞い上がってゆく。



「何? 逃げられただと!?」
「申し訳有りません!」
 平伏で詫びる部下の肩を杖で打ち、憤懣やるかたないと言ったミニチアーニが、渋面のまま辺りを闊歩する。
「ですが、あの傷で山を降りるのは無理にございます。今頃はどこかで野たれ死んでいると思われますので、ご安心下さいますよう……」
「ええい、そのようなことはわからぬ! 安心せよと申すなら、しかと遺体、この目の前に転がして見せよ!」
 地下道の悪夢未だ覚めやらず。そのため公邸の裏庭から続く雑木林に場所を移して、密会は行われていた。
 男を三度打ったミニチアーニが、勢いも新たに、横に控えるもう一人にも同様の罰を与える。
「お前もお前じゃ! 人集めが捗らぬでは話にならぬ。ぐずぐずしている時間はないのだぞ、わかっておろうが!」
「はい。申し訳ございません」
 身なりは男のものだが、発せられた声は紛れもなく女。彼女……シアメーセは伺うかにして主の顔を見ると、それが依然怒気に溢れているのを認め、諦めの心もちで今一度振るわれるであろう一撃を待った。

 ひと通りの仕置きを終えた後、密偵二人を下がらせ、外相ミニチアーニは、頭にない分丁寧に扱っている自慢の顎鬚を撫でた。彼が思考にふける時に見せる癖でもある。
 月影は清か。湖から吹いて来る風にマントをなびかせ、黒く夜に沈むロレンシア城を見上げる。
 そして、誰に聞かせるでもなく、低く零した。
「待っておれ、じきにお前に相応しい主を与えてくれようぞ」


Chapter.2 END

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