Chapter.3-1
 木枯らしが窓を叩く音を聞きながら、書類に目を走らせる。
「作物の取れ高は平年並みか。悪くはないのだが、やはり後のことを考えると少しな……今後はこれら分野の開発にも力を入れるべきか」
 ロレンシアは標高の高さが災いして農業にはあまり適していない。それでも金鉱脈が発見されるまでは貧しいながらどうにか暮らすことができていたのだが、今再びあの貧しさに戻れと言われても、余裕を知ってしまった人々にそれを耐えることは難しいだろう。
 けれど、金はやがて尽きる。そもそも無尽蔵にあるものではなかったのだ。ならば最初からそれを見越して何らかの策を打つなどすれば良かったものを、この国は先代まで、掘れば出る金に依存し、常に課題を後回しにして来てしまった。
「農業と畜産、それと何か加工業の方でも考えてみるか。幸い国民の気質は勤勉で実直。上手く導くことさえできれば、ロレンシアが再度立ち上がるのにそう長い時間はかからないだろう」
 何か良い案はあるか?   
 そうコンラードに聞こうとして、ヴァレンティーナは思い止まる。
 今更この男に問うたところでどうにもなるまい。
 彼はじきに離れてゆくのだから。
 飲んだ言葉のかわりに、机の上で指を組み合わせると、その上に軽く顎を置問うた。
「何処へ行くかはもう決めているのか?」
「いや。まだだが」
「まあ、お前ならどこででもやっていけるだろうから心配などしてはおらぬが、冬の間はやめておけ。寒い思いをすることになるぞ」
「誰も今すぐに出て行くとは、一言も言っておらん」
 用意が整い次第と言った。自らの仕事をの後継に託し、自らの役目を終えたならすぐにでも……彼は、行ってしまうのだろう……この男のことだ、自分に何かあった場合を考えて、常日頃から人員の配置などは整えていたはずだ。行こうと思えば、いつでも、どこへなりとも、行って……
 そう、行ってしまうのだろう……
「世界の全てを見て来るといい。お前の時間は私のために費やされたようなものだ。これより後は自分のために生きることを考えたらいい」
 子供の頃から病弱なヴァレンティーナの遊び相手を務め、その傍らではいずれ共に政務を担う片腕として厳しく育てられてきた。子供らしい子供時代など、無かったにも等しい。
「何もお前の犠牲になっていたわけではない」
「同じようなものだ。だから、自由に生きろ」
 これからはもう、ひとり。
 この手を離れて……

 自由に生きろ。


 秋晴れの空の下。木漏れ日あふれる庭の小道を、ヴァレンティーナとシルヴィオが何事かを語らいながら歩いている。その様子をベランダの上から見下ろしているのは、今現在このロレンシア城でもっとも巨漢であるだろうと言われている男、マウリシオ=ジベッリ。体はでかいが婿候補の中では一番陰が薄いと言われている彼は、大柄な割に小さな手をポケットに突っ込むと、一枚のハンカチを取り出し、いつものようにキイィィィィ   ッ、と。
 自らの無念に慰めを与えようとしていた。
 その時である。
「マウリシオ殿」
 声をかけたのはハーゲン。若かりし日はロレンシア一のデブと囁かれた、こちらもまた巨漢。
「残念ながら我が姫は細やかな感性というものをお持ち合わせではない。そなたがそのように陰ながら心を痛めていてもお気付きになることはないだろう」
 というより、たとえ気付いたとしても黙殺するだろう。そういう女だ、ヴァレンティーナ=ロヴィアーノ・ロレンシアというのは。
「けれど、ワシはそなたを応援したい! 他の婿君候補殿には無い、その健気なお姿に感銘致しました。是非ともマウリシオ殿が、あの大公の配偶者が座る椅子に、みっちりとギュギュッと納まられるお姿をこの目で拝見したい!」
 みっちり、ギュギュッと、ぴったり……そこは金山持ちのロレンシア、椅子はこの上なく立派で頑丈な作りのため、デブがはまったところで壊れることはない。壊れる事はないが……そのかわり、間違いなく抜けなくなるものと思われる。
「で、ですが、大臣閣下」
「ですがもヘチマもへったくれもござらん! 候補者の中でも財産面ならそなたが一番ではないか。何を臆することがあるというのだ!」
「は、はあ……」
 突然の申し出、しかも噛み付かんばかりの勢いで言われて、動揺を隠せないでいるマウリシオは、手にしていたハンカチで溢れ出る汗をせっせせっせと拭きはじめた。 「あなたのお気持ちはこのハーゲン、よーくわかっておりまする。切欠を掴み損ねておられるのであろう? ですから、明日の夜、大臣主催で晩餐会を催すことに致した。そこで語らうなり踊りに誘うなりして、ギュギュギュギューッと二人の距離を縮めるようになされ」
 勿論発案はハーゲン。音頭取りもハーゲン。他の二人も損はないと見たのか、共同開催を条件にこの案にのってきた。何らかの目論見あってのことかもしれないのだが、それはこちらとて同じである。
「頑張られよ、そなたはワシの希望じゃ」
 ガハガハと笑い、バシバシと背中を叩く。
「えーっと。あの……」
 言われた方はもう何が何やらという面持ちで、困り顔のまま流れ落ちる汗を拭き続けるしかなかった。


 この後晩餐会が控えているとなれば、公女様は準備に忙しい。
 空いた時間を私室で過ごしていたコンラードは、意外な来訪者に眉をひそめ、そして有無を言わさず扉を閉めにかかった。
 されど相手もツワモノ。わずかな隙間に半身を滑らせ、無理矢理にでも室内に押し入ろうとする。
「こんなところを誰かに見咎められてもいいっていう?」
 確信めいた笑みが、どうするかを問うていた。
「なんの用だ」
 わずかに力が緩んだのを許可と受け取り、まるで猫の如きしなやかさで侵入を果たすと、シアメーセは部屋の中央にまで足を進め、羽織っていた外套のフードを下ろした。
「大丈夫だよ。この姿はあまり知られていないから」
 今日も先日顔を合わせた時のように、長い髪をたらし、女の出で立ちをしている。ミニチアーニの密偵にして男装の麗人であるシアメーセ。その存在を知る者はいたが、それが更に女に化けているとなれば、確かに正体を知る者は稀有であると言えよう。
「相手が誰であろうと、女を部屋に入れているという噂など有り難くはない。しかし、お前が易々と忍んで来るなど、城の警備はどうなっている」
「そんな怖い顔しないの。衛兵を叱ってはダメだよ。僕の腕が良かっただけのことなんだから」
 いたずらっぽく笑む。
「ねえ、もういいじゃない。姫君は結婚なさるんだろう? あんたじゃない誰かとさ。妙な忠義立てはやめたら?」
 挑発するかにして言うも、端から相手が乗って来ないのはわかっているという素振りだった。
「この髪は姉さんの形見なんだ。仕事で必要になったら使ってほしいってさ。あんなに痩せて、髪まで切ったら見れたものじゃなかったっていいうのに」
 テーブルの淵に細腰を置き、問わず語りに話しはじめる。
「僕ら姉妹は幼い頃両親に先立たれ、叔父夫婦に厄介者扱いされたあげく、孤児院送りになった。孤児院にはミニチアーニ夫人が寄付をしておられてね。やがて僕らはそのご夫君の目に止まることになった。おっと。妙な勘違いをするんじゃないよ。あの人は充分過ぎるほど変態だけど幼児趣味は持ってないんだからね。育てて手駒にしようと思ったのさ。よくある話だろう?」
 事実、人集めの手段としては平凡なものである。ミニチアーニがいかにして手勢を育てているか、その道の情報なら既にコンラードも得ていた。
「でも、姉さんが病んだ。僕は姉さんの分も頑張ろうと思ったよ。理由はどうあれ、ミニチアーニ様には恩がある。僕が男の格好を選んだのは僕なりの意思表示さ。気概の表れだよ。知ってるかい? あのボルジーア家を傾けたのは僕さ。あの方もよくしたと褒めて下さったよ」
 晴れやかに言う。けれどその表情は瞬く間にして曇った。
「でも、でもでも! 姉さんが死んだ! もういないんだ! 僕のことを心から気遣ってくれる人はもういない!」
 どこにもいない。
 涙声のシアメーセはコンラードに縋り、そして訴えるかにして言った。
「ねえ、僕はもう女の子に戻りたいんだ。力を貸しておくれよ、コンラード」


[ BackNextIndexTop]

inserted by FC2 system