Chapter.3-2
「見てよ、これ。あの人幼児趣味はないけど、過分にサドっけがあるんだよね」
 襟元を広げ、醜く腫れ上がった傷痕を見せる。打たれたのであろうことは明白。まだ治りきらぬうちから新しい傷が刻み込まれている箇所もあった。
「嫌なんだよ、もう。こんな毎日。ねぇ、昔の事は全部忘れる。田舎でもどこでも引き篭もって暮らすからさ、あの人の手の届かないところへ逃がして」
 苦しげに寄せられた眉と揺れる瞳。白い指が縋った。
「逃げたければ勝手に逃げればいいだろう。何故俺を頼る。お門違いも甚だしいんじゃないのか? シアメーセ」
「僕一人じゃ無理だってことくらいわかるだろう。すぐに追っ手が放たれて終わりさ。後ろ盾がいるんだ。頼めるのはあんたくらいしかいない」
 まるで囲ってくれと言わんばかりである。コンラードは鬱陶しげに身を引き、さらに纏わりつく空気を払うかにすると表情を歪めた。
「何の匂いだ。香か? 化粧か? どちらにしろ少し控えたらどうだ」
「ああ、ごめん。苦手だった? あんたが嫌だって言うならやめるよ。だからさ、僕を……ううん、」
   ”アタシ”を助けて   
 心底嫌そうな顔をしてやったが、相手がどれほど堪えているかは知らない。
「いい加減にしろ。何を勘違いしているかは知らないが」
 言い切らぬうちに鈴が鳴った。ヴァレンティーナが呼んでいる。シアメーセは笑い、コンラードの側を離れると、再びテーブルの淵に体を預けた。
「行けば? 僕は後から出る。一緒にいるところを見られるとまずいんだろう?」  赤い唇が揶揄するかにして分別を語る。コンラードは無表情のまま歩み寄り、そしてシアメーセの腕を掴んだ。
「お前をひとり残しておくことの方がよっぽど危険だ。そんな恐ろしい真似などできるか」
「ちょっと!」
 批難の声などものともせず、相手を引き連れ部屋の入り口へと向かった。
「痛い。離して! 女の子が相手なんだから手加減ぐらいしろ!」
「女の子? 自分の年を考えてものを言え」
 事実コンラードよりも年上である。
「何さ、女の子はいくつになっても女の子なんだよ! そんなデリカシーがないことだからヴァレンティーナ様にもふられたんじゃないのかい? ええ?!」
 部屋の外に出ると、騒ぎを聞きつけたらしいエミーリオの顔があった。
「つまみ出しておけ。ミニチアーニの鼠だ」
「ああ……」
 得心したふうのエミーリオは「畏まりました」と告げるに止め、多くを問う事はしなかった。
「覚えておけよ!」
 捨て台詞を残し、薄暗い廊下をシアメーセが引きずられてゆく。それを背中で聞きながら、コンラードはヴァレンティーナの元へと向かった。


 そして晩餐会の夕べ。
 現時点での主役はヴァレンティーナと、その踊りの相手を務めるダリオ・ディオニージ公国、第三公子バルダサーレ。
「ハーゲン、そのように大口をひらくとまた顎を外すことになるぞ」
「癖になると言いますからなぁ、あれは」
 共に顎外した仲間の忠告もどこへやら、衝撃の表情を隠せないでいる本日の首謀者……ではなく主催者、フランチェスコ=ハーゲン。
「流石、絵になるというか、様になるというか」
「こういうのは場慣れしている者勝ちでしょうしな」
   て、敵に塩を送ってどうするーーーーーーー!(ハーゲン心中の叫び)
 デブによるデブのための援護射撃はこうして初っ端から出鼻をくじかれることになった。


 会場中が二人の踊りに見惚れる中、広間の片隅でそれとなくエミーリオからの調査報告を受けていたコンラードは、その場でいくつかの指示を出し、最後に「行け」と命じることで彼を解き放った。
 華やかな音楽と、人々のざわめき。それをどこか遠くに見つめながら、ひとり壁に背を預ける。
 自由に……   
 ヴァレンティーナの言葉が脳裏をかすめては消える。
 自由に……   
   ならば、どこへ行くか。
 視線を伏せていたのは、ほんのわずかな間のことだったと思うのだが、気配に気付き顔を上げると、目の前には視界を覆うほどの黒い影が迫りつつあった。
「あ、これは失礼」
「いえ。お気になさらず」
 寸前のところでかわしたため、両者は軽く肩を触れ合わすだけで済んだ。
 右手に持った杯から酒がこぼれなかったかどうかを気にしているマウリシオは、集団から抜け出し、そのまま気もそぞろに下がってきたようで、後ろに壁が迫っていることもコンラードがひとり立っていることも気付かなかったらしい。
「このようなところにおられてもよろしいのですか?」
 ハーゲンの小細工などすでに見抜いている。本来なら主役であるはずのマウリシオに対し、当然の疑問として言葉を投げかけた。
「ああして先を越されてしまった以上は、もう今宵この場に私の出番はありませんよ」
 身の程はわきまえているつもりですから……
 そう小さく言って、ひと口杯の酒を口に含んだ。
「僭越ながら申し上げますが、我が姫は控えめを美徳とするような方ではありません。貴殿が行動に出られない限りは何ひとつはじまらないのですよ」
「大臣殿にも同じようなことを言われましたよ」
 ははは、とマウリシオは笑った。
「良いのですよ。最初から私には過ぎた話だと思っておりましたから。実は今回の縁談、強く望んでいるのは父と兄でして、私は彼らに逆らえず言われるがまま送り込まれたにすぎません。そりゃあ、姫君はお美しい。お美しいとは思いますが……」
 高嶺の花である。
 噛みしめるかにして言った声はそこで途切れ、コンラードもあえて答えることなく視線を落とした。
 場内は華やかな音楽に賑わう。しばし二人してその様子を眺めていた。
 多くを語る間柄ではない。そのままどちらともなく場を分かち、一礼と共に離れていくはずであった。
「マウリシオ殿?」
 くぐもった声に違和を察し、コンラードが視線を向けると、マウリシオの手から杯が滑り落ち、一度つま先にあたり跳ねた後、それは床を打って砕け散った。
 絞り出すような呻き声と、こぼれ出る鮮血。崩れ落ちる身体を支えようするも間に合わず、床に倒れ込んだ大男は、幾度かもんどりを打って、やがて止まった。


 上がる、女の悲鳴。華やかな空気は一瞬にして霧散し、誰もがその惨状に驚き、戸惑いの声を上げる。
「何事だ!」
「これは……」
「マウリシオ殿!」
 先に三大臣が駆けつけ、続いてヴァレンティーナが人垣の合間から姿を現す。
「毒か?」
「おそらくは」
 マウリシオに触れ呼吸の有無を確認していたコンラードは、頭を振って男が絶命していることを伝えた。
「なんと!」
「これはいけませぬぞ、いけませぬぞ」
「マウリシオ殿!」
 デブレティスが驚きの声を上げ、ハーゲンが遺体の前に跪く。ミニチアーニは砕けた杯の残骸を拾い上げ、しばしそれを眺めたのち、コンラードに対し問うた。
「これに毒が入っていたのか?」
「断言はできぬが、直前まで手にしておられたのがその杯であったことだけは確かだ」
「他には何も口にしていないと?」
「少なくとも、私と言葉を交していた間は」
「ふむ」
 ミニチアーニはしばし考えるように視線を伏せ、やがてそれをチロリと動かすとコンラードに向けた。
「ならば毒を盛ったのはそなたか、コンラード」


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