Chapter.3-4
「何をしておる! 急ぎ持って来いというのがわからんのか!」
「ですが姫君、先の資料につきましては、もう少しお時間をいただかなければ……」
 真鍮の紙押さえが飛び、壁にめり込む。意見を述べていた文官は、己の身に起きたことを理解するや否や、顔色を無くしへたり込んでしまった。あれが頭にでも当たっていたかと思うと、今頃は……
「苛立ちはわかりますがが、もう少し落ち着かれませぬと」
 勢いで舞って来た紙を手にし、デブレティスが溜息をこぼした。
 三大臣で定時の挨拶に訪れてみればこれである。コンラードの一件があって以来、ヴァレンティーナの機嫌はすこぶる悪く、家臣たちは対応に苦慮する日々が続いていた。
「候補の筆頭を無くしたのだぞ。苛立ちもするわ」
「筆頭ですと? バルダサーレ殿やシルヴィオ殿ではなくて?」
 ミニチアーニが驚きの声を上げた。
「あれが一番金を持っておったであろうが」
   本当に顔は選択基準になかったのでございますね……
 デブレティスとミニチアーニが共に顔を見合わせ、ハーゲンはひとり、
「デブの星が!」
 そう嘆き天を仰いだ。


 ジベッリとの話し合いはもつれにもつれ、これでもかという額の慰謝料をふんだくられ末、どうにか示談で決することとなった。
「これだから商人というやつは」
 吐き捨てるように言い、ヴァレンティーナは紅茶を口に含む。同じ茶葉を使い、同じ水を使っているはずなのに、淹れる者が違うだけでこうも味が違うのか。それもまた、ヴァレンティーナを苛立たせる要因のひとつになっている。
「何やらお気持ちが優れないご様子。一曲いかがでしょうか? 姫君」
 中庭に面したガーデンテラスに、竪琴を携えたシルヴィオが姿を見せた。
「寒くはありませんか?」
「頭を冷やすのには丁度いい具合だ。そなたこそ、その白魚のような指が風にかじかむのではないか?」
「このくらいなら大丈夫でしょう。では、我が故郷に古くから伝わるバラードでもお聞き下さいませ」
 向かい側の席につき、竪琴を爪弾く。商人というより、あまりにも吟遊詩人然としている出で立ち。気楽な次男坊が好き勝手しているふうでもあり、不思議とそれが親しみ易さにも繋がる。
「相変わらず良い声だが、故に軽薄だと言われたことはないか?」
「そのようなことをおっしゃられるのは姫君だけにございますよ」
 互い、戯言を交わすかのように笑い合う。
「それで、そなたは何故この話に応じようという気になった」
 唐突に問われ、シルヴィオは流すかのようにして奏でていた単調な調べを止めた。
「そうですねぇ、率直に言ってしまえば、父の希望により、といったところでしょうか?」 「そなたの父親は大公の婿という立場にどんな利点を見出したのだろうな? やはりこの国の金鉱脈か?」
「いえ、よく聞きませんか? 金も地位も手に入れた人間が最後に欲しくなるのは名誉だそうです。父は爵位を買い大公の妹を手にすることはできましたが、大公の地位までを手に入れることは叶わなかった」
「だから行く行くは大公の外祖父に納まろうと、そういう魂胆か?」
 シルヴィオは頷く。
「流石姫君。話が早くていらっしゃる。さぞや孫馬鹿な金満ジジイが出来上がることでございましょうよ」
「それは少々……楽しみではある」
 ヴァレンティーナの含み笑いを受けて、シルヴィオの指が再び透明な音色を刻みはじめた。


 バルダサーレ=ダリオ・ディオニージから遠乗りの誘いがあったのはその日の夕刻。
「今日は入れ替わり立ち代りだな。それほど私は落ち込んでいるように見えるか?」
「いいえ、全く。これっぽっちも」
 貴公子はあっさりと返した。
「ですが、気分転換はされた方がよろしいかとお見受け致しました」
 あれだけ当り散らしていれば、そう思われても致し方ないか。ヴァレンティーナは苦笑と共に答える。
「よかろう。明日も引き続き晴れるであろうから、予定を空けさせよう。前回の遠駆けは思いのほか爽快であった。次も負けぬぞ。遅れぬようしかと着いて参られよ」
「承知仕りました。姫君」


 そして、晩秋の野を疾風が如き馬が行く。
「ああも速く駆けることに何の意味が?」
「女の浪漫だそうだ」
「わからん」
 追従の騎馬隊は今日もヘロヘロ。
「いかがなさいましたか? 姫君」
 湖の淵にまで馬をよせ、そこからの景色を望むヴァレンティーナに、バルダサーレが声をかけた。
「何故に今日はこの場所を指定されたか」
 けれど、逆に問いを返されてしまう。
「地図を見てのことにございますよ。地形的に一度足を運んでみたいと思いましただけで、特に深い意味はありませんが……それが何か?」
「いや。ここに立つまでは気付かないでいたが……どうやら子供の頃に一度、訪れていたこのある場所であったらしい」
 懐かしげに目を細め、しばし感慨にふけった。
「今からでは想像もつかないであろうが、子供の頃の私は、床に伏していることが多く、外出すらままならない状態にあった。父に無理を言い、当時の宰相に無理を言い、天候の良い日を選んで、どうにか連れて来てもらったのが、ここだ」
 丁度、城の対岸に位置する。体半分を水面ギリギリに伸ばした、二股の幹を持つ古木の姿に見覚えがあった。
「季節はおそらく春で、一面に白い花が咲いていた。茂みの奥を覗き見ると、そこは絵本の中にでてきた魔女の森さながらで、引き寄せられるように足を踏み入れた私は、案の定すぐに道を見失ってしまった。どうしたものかと途方にくれていると、最初から一部始終を見ていたらしいコンラードが現れ、」
   ひとりになってはいけないと、あれほど言われていただろうが。お前は自分の存在にどれだけの意味があるか、きちんとわかっていないのか?
「そう言われ、手を引かれて戻った。ずっとどこが道なのかわからないでいたというのに、あれについて進むと、瞬く間に森の外へ出てしまった」
「良い思い出をお持ちなのでございますね」
「子供の頃のな。けれど、誰もあの時のままを生きることはかなわぬ。過去にとらわれひとたびそこに立ち戻ろうとすれば、途端に足を掬われる。そうであろう?」
 時は頑ななまでに前向きにしか流れないから、人の力でそれに抗うことはできない。過去は美しいが、過ぎたるものは全て、今となっては泡沫の幻に過ぎず、手を伸ばしても、
 もう……
 それを掬い取ることは、できない。
「昼食にいたしましょうか、姫君。今日は厨房の方に無理を言ってディオニージ風のサンドイッチを拵えてもらいました。お口に合うかはわかりませんが、たまにはよろしいでしょう」
 バルダサーレに促され、少し離れた場所にある平地まで、馬を歩かせている途中での出来事だった。突然茂みが揺れたかと思うと、中から転げるようにしてひとり、男が出てきた。
「何事か」
 バルダサーレの声に、その部下がいち早く駆け寄る。
「行き倒れのようですね。手当てをした形跡もありますが、かなりの傷を負っている模様。いかがなさいますか?」
「騎馬隊の中に医師の心得を持つものがおる。まずはその者に診させよう。何やら事情持ちの様子。捨て置くわけにもいくまい」
 苦悶の表情を浮べる男は、薄く開いた双眸でヴァレンティーナを見つめ、そしてゆっくりと瞳を閉じた。


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