Chapter.3-5
 朝まだ早いうちに、考え事をしながら庭の散策をするのが、公女ヴァレンティーナの日課だった。
「無理をせずに帰っても良いのだぞ」
 少し離れたところから硬い表情をしたサミュエルが見ている。初霜が降りたらしい庭は吐息も白く、冷たい空気が頬をかすめる。
「無理などはしておりません。ただ、少し驚いただけで……」
 マウリシオとそしてコンラードの一件があって以来、以前と一切変る様子を見せなかったバルダサーレ、シルヴィオの両陣営とは異なり、サミュエルとそれに付き従う者たちは、動揺を隠せないでいる日々を送っていた。
「親元からも召還があったのではないか?」
「それは確かに……ですが、昨日使者を立ててもうしばらくこちらに留まりたい旨を伝えました」
「何故? 丁度良かったではないか。親が弱音を吐くなと言うならともかく、帰って来てもいいというものを断る理由がわからぬ」
「まだ、ご返答をいただいておりませんから」
「婿のことか?」
「はい」
 ふむ……、と頷いたヴァレンティーナは閉じた扇子の先を数度口元にあてた。
「ただ、驚いていただけです」
「確かに。子供が見て気持ちの良いものではなかっただろうな」
 マウリシオの死を、そしてコンラードの変容を、少年は間近で見ることになったのだ。(正確には、鬼神の如きヴァレンティーナの大立ち回りも加わるのだが、それは彼女の思考に含まれるところではない)
「決断には今しばらく時間がかかるし、そなたを選ぶとの約束もできぬが、それでも良いか?」
「はい」
 ようやく笑みを浮かべることの出来たサミュエルが頷く。
「父上の書斎に南方の蝶に関する古文書があったから後で届けさせよう。おそらく中央の図書館でも見たことのない代物だと思うぞ。今日は大臣共との打ち合わせで時間が取れぬが、また感想などを聞かせてもらうとしよう」
「わかりました。楽しみにしております」


 ヴァレンティーナ+三大臣+進行役のエミーリオ。あくまで定例の報告会であったはずが、紛糾の末決裂したのは午後の陽も少しずつ傾きはじめた頃のこと。憤怒の末ハーゲンが退出し、溜息に頭を振ったミニチアーニがそれに続いた。苦笑を貼り付かせたまま動けないでいるエミーリオにデブレティスが退室を促し、自らはヴァレンティーナの傍らに椅子を用意させるとそれに腰を下ろした。
「少しよろしいですかな? 姫君」
「なんだ?」、とばかりに向けられた厳しめの視線も、穏やかな笑みで受け止め、デブレティスはゆっくりと口を開いた。
「今日のは確かにハーゲンに非がありますが、姫君にはもう少し……なんというか、柔らかな視点を持っていただかねば困ります」
「柔らかとはどういうことか。愚鈍であれと申すか? そなたたちの言い分を右から左に聞き流しておればいいと、そういうことだろうか?」
「そうは申しますまい。ですが、人間とは面倒なもので、多少なりとも顔が立つようにしてやらねば崩れ果ててしまうものです」
「笑止。そのようなことを言っていては現状が立ち行かぬわ。守れぬというならなんのための法か。なんのための司か。一国が一国としてあるがための決め事、あれの顔を立てるためにあるものではない、そうであろうが」
 嘲笑うかのように吐いて捨てたヴァレンティーナに、なおもデブレティスは態度を崩さず、ただひとつだけ困ったように溜息をこぼすに止めた。
「やはり、エミーリオではまだ捌き切れませぬか」
「何がだ」
「コンラードは上手くやっておりましたよ。あなた様のご勘気と、我ら年寄りの我侭、決してどちらかを潰すようなことはせず、上手く場を取り繕い収めておりました」
「おらぬ者のことを言ったところで仕方なかろう」
 ヴァレンティーナがこぼす溜息は、彼女が話を切り上げようとしている表れでもある。彼女の視線が窓に向けられた時、本来ならそれを察したデブレティスが立ち上がるはずなのだが、今日の彼はまだ何か言いたいことがあるらしく、外れていた手首のボタンを戻すと、再び口を開いた。
「姫はあの一件を本当にコンラードの仕業だとお思いなのですか?」
「今更それを聞いてどうなる。魔物の血が騒いだのなら人の血を求めることがあったとしても頷ける話だ。だから討とうとした。打ち損じたやも知れぬがな。遺体が上がらぬ以上はわからぬ」
「逃がしておやりになったのではないですか? あなた様が突いておられねば、魔法剣士殿の一撃に打たれておったでしょうから」
「見ていたふうなことを言う」
 視線を戻さぬままに、ヴァレンティーナはこぼした。
「私は、未だに信じられませぬ。確かにあれが魔性の血をひいているとの情報は得ておりましたが、あのようなこと……たとえ、人より魔性の血が濃く現れるようになったとしても、あれならその狂気、内に秘めたまま生涯押さえ通してみせたことでしょうから」
 窓の端には茜色の空が映る。薄闇に沈もうとする部屋に、小さく座る初老の男へと向けて、ヴァレンティーナはその真意を量りかねるかのように視線を落とした。
「もしかするとあのような息子がいたのではないかと、そんなふうに考えてみたこともあります」
「そなた……もしや、まだ?」
「いえいえ」
 デブレティスは大きく頭を振った。
「妻は平凡を絵に描いたような女ですが、気立ても良く私に穏やかな毎日を与えてくれます。だからこれは、昔の感情の続きにあるとか、そういった類いのものではないのでしょう。ただ、あったことを無かったことにはできぬのです。記憶でも無くしてしまわない限り、あの人の面影は私の過去としてこの記憶の中に在り続ける。これはもう、致し方の無いこととして諦めております」
 ニコラ=デブレティス、若き日にあった婚約者の名をリリアーナ=フリーゼリという。 「まるで陽の光を集め編んだかのような、美しく優しい娘でしたよ。親同士が決めた結婚でしたが、歳も離れ、ましてこのような姿形の私と引き合わされても嫌な顔ひとつせず、兄のように慕い懐いてくれた」
 けれど、時が過ぎ、恋を知るようになった娘が愛したのは別の男だった。
「責められましょうか。責められはしません。それが人並みの感情というものでしょう。年頃の娘に私のような者に恋心を抱けというのが土台無理な話なのです。あれは、あの娘は……嗚呼、せめて私の姿がもう少し見栄えのするものであったなら!」
 堪えきれず吐き出したデブレティスに、ヴァレンティーナはすかさず「違うぞ」、と言葉を重ねる。
「それは違う。そなたは姿のハンデを補うために人一倍努力を重ねてきたではないか。人一倍紳士であろうと、言葉遣い振る舞いともに気を配ってきたはず。子供の頃から見てきたのだ、そのくらい知っておるわ。全ての考えに同意できるのではないから、そなたらとは足並みが揃わぬこともあるが、そなたがしておる努力、それすら否定するほどこのヴァレンティーナ堕ちてはおらぬ」
 椅子の横に着き男の手を取ると、公女に膝をつかせたことに抵抗を覚えたのか、デブレティスが立ち上がり、ゆっくりとその手を戻した。
「ありがたきお言葉にございます。そう言っていただきましただけで、私はもう……」
「私にはわからぬが、それだけの感情に飲まれたということであろうか」
 裏切りがどれだけ目の前の男を傷つけるか、それを知らぬ娘ではなかっただろうに。
 リリアーナは男の子を産み落とした後に他界し、子供は兄の子として育てられることになった。子供の父親が魔性の者であるという事実は、ほんの一握りの者たちの記憶に残るのみで、時が過ぎ行くと共に忘れ去られようとしていたのだが……
「姫はまだご存知無いと言われるか。あれは、厄介なものにございます。たとえどう謗られようとも構わぬとさえ思うてしまうくらいですから」
 夕闇に沈もうとするヴァレンティーナは微かに笑みを浮べた。
「ひとつお聞かせ願いたい。何故、コンラードを退けられました。少なくともあの頃であれば、状況的にもあなた様がそうお望みであるであるなら、我ら三大臣、そして以下家臣一同、多少の意見は出ようとも、お二人のこと認める方向で動きましたものを」
 沈黙がそのまま答えになるのではないかと思われたが、やがて黒い影と化したヴァレンティーナが口を開いた。
「それは言えぬ……まだな。まだ言うことはできぬ。ただ、いずれはこの口から語ると誓おう。それでよいな、ニコラ=デブレティス」
「承知いたしましてございます」
 我が姫   
 デブレティスは礼の姿勢を取ったが、それもまた、闇の中に溶けるようにして沈んだ。


[ BackNextIndexTop]

inserted by FC2 system