Chapter.4-1
 鐘が鳴る。高らかに。
 鐘の音が、響き渡る。

「おや、今日は何かあるのかい?」
 不用意に動いたため、無造作に積んであった本の山が崩れ、机の上から滑り落ちた。 「お忘れですか? 昨日お伝えしましたでしょう。それに今日のことではありません。あの鐘はお祝いの意味をこめて、これから三日の間、毎日正午に鳴らされるのですよ」  拾い集めるのを手伝いながら博士付きの秘書官が答える。
「祝い? 何を祝うっていうんだい? 祝い事なんてあっただろうか?」
 素で問い返してくる博士に、いつもの事ながら……と苦笑を浮かべ、秘書官は昨日も口にしたはずの言葉を今一度告げた。
「姫君がご婚約あそばされるのです。これが祝い事でなくしてなんでございましょうか」
「ああ、そういえばそんな話を聞いたような気もする……かな?」
「上の空でしたからねぇ」
 博士は常時研究に夢中で、放っておくと寝ることも食べることも疎かにしかねない。最低限の日常生活を取り仕切るのも、秘書官である彼の務めであった。
「しかし、よりによって三日後とはまた。どうして三日後なのだろうね?」
「何か不都合でもおありですか?」
 挙式は次の春か夏と噂され、今回は最低限の取り決めを交すだけに留まるとのことだったが、それでも自国公女の婚約が整うのであるから、ロレンシアは国を上げての祝賀ムードに包まれている。
 秘書官は、昨夜から放置されたままの製図用具を片付けようとするが、目聡くそれに気付いた博士から「あ、それまだ使うから」、と言われてしまえば、渋々ながら諦めざるを得ない。
「私の計算が正しければ、その日はアレが起るはずなのだよねぇ」
「アレ……ですか?」
「そう、アレ。でもまあ、姫君はそういうことを気にされる方では無いだろうし、大丈夫かな?」
   うちの博士様、いずれは学士の搭を背負って立つと言われるほど有能な方なのですが……
 あまりにも有能すぎて、頭の中に数十人の別人格を抱えているのではないかと真剣に語られるほどである。それだけ一度に多用なことを考えており、今の彼がどの研究のことを指して言ったのかを瞬時に判断するのは、博士に仕えて五年になる秘書官をしても難しいことと言えた。
「むしろ結婚式の時でなくて良かったと言うべきなのだろうね」
「はあ……」
 依然として何のことかは不明であり、不明であるからこそ「はぁ……」と、曖昧に答えるほか無いのだが、そういう遠まわしな反応など、当然のこと理解されることはない。
 どうやら博士の言う"アレ"とやらは、その"アレ"が起る瞬間まで、秘書官の頭に謎として残されるようである。


 大公姫ヴァレンティーナの結婚。その花婿となる相手が定まった経緯を語るのには、少しばかり時間を戻さなければならない。
 舞台はロレンシア城、謁見の間。
 衣擦れの音と共に、ハーゲン、ミニチアーニ、デブレティスの三人が礼をする。形式的な口上を述べたのち、もったいぶるかにして姿勢を正すと、代表として中央のデブレティスが告げた。
「予想外の事態に、思いのほか長引くこととなりましたが、そろそろお決めになられる頃合ではないかと思われます」
   婿君のことご決断を、姫君   
 軽く頬杖をつき、三人の申し入れを聞いていたヴァレンティーナは、わずかな沈黙の後、
「わかった」
 と答えた。
「だが、私が決断を下す前に、まずはお前たちの意見を聞かせよ。それを踏まえた上で最終的な答えを出すことにしよう」
 三大臣がそれぞれに頷く。
「御意」
「相わかりました」
「承知仕りましてございます」
 今一度礼をすると退出。しばらくは各々何やら含むかのような沈黙を続けていたが、やがて誰からという訳でもなく語り始めた。
「意外な展開でしたな」
「よもや我らに意見を乞うとは」
「しおらしいヴァレンティーナなど……これは早々に雪でも降るかな」
 いや、予感が無かったといえば嘘になるだろう。どこかでこうなる可能性を期待していたからこそ、彼らはヴァレンティーナに意見するということを決めたのだ。
 どこか変った。どこというわけではないが、彼女の醸している雰囲気からもそれを察することはできた。
   やはり、心細さがそうさせるのであろうか……
 口には出さないでいたが、誰もがそう思っているのは暗黙の了承でもある。
 各自執務室へ戻るためには次の十字路で別れなければならない。それを踏まえてのことであろう、ハーゲンが言った。
「さて、どうしたものかな」
「乞われたのであれば、我らの意見まとめねばなるまい」
「それなら茶でも飲みながら語らいましょうか」
 求める答えは国のためか、己のためか……
 それぞれの思惑を胸に、三人は薄暗い廊下に姿を消した。


「正直に申しますと、驚きました」
 茶器を片付けながらエミーリオが言う。窓辺のソファーに身を預け、冷たい雨を落とす空を見つめていたヴァレンティーナが答えた。
「爺共とのやり取りがか?」
「はい。主導をお取りになった時点で、全てご自分の意思にて決められるものと思っておりましたから」
 愚策が祟ったとはいえ、最初に三度の失敗を重ねてのこと。大臣たちがこの婿選びに関し、外野の立場に立たされるのは必然の流れだったが、そうであるが故に、今に及んで彼らの意見を聞き入れようとするのはいかなる理由からか。エミーリオは率直に疑問をぶつけた。
「独裁者を気取るつもりはなかったのだがな」
「いえ、決してそういう訳では……」
「構わぬ。だが、私とて己ひとりでこの国を治めていけるなどと思ってはおらぬ」
 微かに刻まれた笑みが、どことなく自嘲の色を帯びていたように見えたのは気のせいだろうか。
 前大公と前宰相の二人が、次期女大公のためにと思案を尽くしていた事柄の多くは、その後に起ったまさかの出来事により大きく舵取りの転換を余儀なくされた。コンラードもいない今、迫り来る難局を切り抜けるためには妥協も必須。ヴァレンティーナの気性を思えば、無念を噛み殺したであろうことは想像に難くない。
「内紛はできる限り避けなくてはならない。敵は強大で、そしてロレンシアの置かれている状況は楽観するにはあまりにも分が悪い。そうであろう? エミーリオよ。だがしかし、何も全て爺共の薦めに従うと決めたわけではないわ。意見を聞くと言っただけだ。それだけで意外だと思われるのはこちらの方こそ意外であるぞ」
「はい……」
 しゅんとして肩をすくめると、ヴァレンティーナは仕方無さそうに笑んで見せただけで、 それ以上を言うことはなかった。
 けれど……
 やはり……
(少し、変られただろうか……)
 だからこそ思う。
「食欲が落ちられたようですな。これまででしたら男分量での大盛りを軽く五人前ほど平らげておられましたのに。それがこの数日は半分……私の腕が落ちたのだろうか? それとも素材の選定に何か過ちが? いいや、そんなはずはない。そうではないのだ。だから……」
 苦悩の淵に立つ料理長が、それとなくこぼしてきたのは昨日の昼過ぎのことである。 (確かに……さきほどお出ししたタルトも、今日はわずか3切れを口にされただけだ……)
 苺とオレンジとブルーベリー、それぞれを一種類ずつ。いつもならこの倍は軽くいく。
 普通に考えれば充分すぎる量なのだが、基準が基準なだけに、周囲の目には奇異として映ったようだ。
(やはり、お寂しいと思われているのであろうか……どうすれば良いのでしょうねぇ、コンラード様)
 エミーリオがひとり思案にくれていると、乾いた音をたてて扉が鳴った。取次ぎを請う合図に対応する。
「バルダサーレ殿下が面会を求めておられるようです。いかがなさいますか?」
「会おう」
 ヴァレンティーナは短く言い、そして立ち上がった。


「内密の話か?」
 ヴァレンティーナが人払いの有無を問うと、バルダサーレはエミーリオに視線を向け、そして頭を振った。
「腹心の方とお見受けしましたので強いては」
 コンラードの一件を経てのことであり、腹心というならコンラードの腹心であったエミーリオのこと、己の立場が彼のそれと入れ替わったのに心苦しさを覚え、申し訳無さそうに表情を曇らせた。
 ただ、それがまた花も恥らうという風情を帯びていたりもしたので、しばしバルダサーレとヴァレンティーナに凝視されるという有り難くない状態を引き起こしたりもした。
「あの……、私などにはかまわず、お話を……」
 小声で告げると、ふたりは何事も無かったかのように本題に入った。
 どこまでが本気で、どこまでがからかわれているのか……
 ふたりの性格からはそこのところが読み取れないから困る。
「それで、用件とは何か」
 ヴァレンティーナに促され、ゆっくりと顔を上げたバルダサーレは、ほんの一瞬だけ笑顔を見せると、すぐさまそれを消して語った。

 エミーリオは物思いに沈むヴァレンティーナを見守る。あれからどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。既に陽はなく、黄昏色の薄闇が、少しずつ色を濃くし、室内を満たそうとしている。
 部屋に灯りをともす事もせず、また夕食の時間を促すことも無く、エミーリオはただひたすらに待った。ヴァレンティーナの言葉を待った。
 やがて、黒い影が動いたかと思うと、それは藍色の空を見上げ、そして傅くエミーリオの方に向き直った。
「少し探りを入れてもらいたいことがある。時間は限られているが、よいな?」
「はい。仰せのままに」
 光の助けなくしてその表情を見る事は難しい。けれど、影は紛れも無く笑った。エミーリオの脳裏には、それがありありと浮んでくるかのようであった。


 ロレンシア城は謁見の間。衣擦れの音と共に、ハーゲン、ミニチアーニ、デブレティスの三人が揃いの礼をする。形式的な口上を述べたのち、もったいぶるかにして姿勢を正すと、代表として中央のデブレティスが告げた。
「それでは姫君。これから申します御名、我ら三人の総意として受けていただきたく思います」
 両側の二人がわずかに頷いて同意であることを示す。
「我ら三人がこの方こそと思いましたる御方の名は……」


「ふむ……」
 と、まるで吐息に溶かすかにしてヴァレンティーナが言う。
「やはり、それが最良であろうな」
 これまで異論を唱えるばかりだった紅い唇。そこから毀れ出た言葉に、居並ぶ三人の大臣はしばし戸惑い、そしてそれが意味するところに辿り着くや否や、驚きの表情を浮べた。
「それでは……」
「そうだ」
 ヴァレンティーナが頷く。
「ロヴィアーノ・ロレンシア公国が公女、ヴァレンティーナ・ロヴィアーノ=ロレンシ。我が我が夫にと見定めし者の名は……」

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