Chapter.2-1
 ロヴィアーノ・ロレンシア城。
 地下通路の一角に立つ男はしきりと汗を拭いている。ここに熱気がこもるのはめずらしいのだが、気象条件にでも左右されるのか、時々こういう日があり、そしてまた今日はひと際蒸すときている。
 顔を拭いていた布をそのまま頭へと持って行き、数々の別れを繰り返して来た頭頂部をまるで労うかにして撫でてやる。少し前までは、その行いによって引き起こされる新たな別れに涙したものだが、幸か不幸か、今はもう何の障害も無く汗をふき取ってやることができるようになった。
「ふう……」
 ひと息ついたところへ、近づいてくる者の気配を感じ、姿勢を正すかにしてそれをむかえる。
「遅いわ」
「申し訳ございません」
 密会にはもって来いだが、少々声が響く。それを避けるために、ぼそぼそと呟くように語る男の報告を、外相ミニチアーニが額に汗を垂らしながら聞いている。
「オクタヴィアンの奴、そのようなことを申しておったか」
 男が頷くと、共にランプに映し出される黒い影も揺れた。
「条件としては悪くない……か?」
 受け取った情報を値踏みするような顔で吟味し、「ふむ」と吐息したミニチアーニが、次の指示を待っている男に告げる。
「即答は難しい。うまく言いくるめて時間稼ぎをせよ。ただ、こちらの感触としては悪くない。そこのところを踏まえ判断を誤らぬよう動け。よいな」
「御意」
「それと、“あの男”に伝えよ」
   益々主の存在が重要となった。いかなる手を使ってでも婿の座を掴み取れ   
「無論、我も全力でバックアップするがな」
 男を先に下がらせ、既に幾度取り出したかわからない布を顔にあてると、薄明かりに照らされる石の壁をじっと見つめる。
「共には滅ばんよ、ヴァレンティーナ」
 そう呟くと、彼もまた男の姿が消えた通路へと向かい歩き始めた。


「あのさ、ここにあった棚だけど、邪魔だから移動させてもらったよ」
 ひょいと顔を覗かせたのは、可愛らしいという形容が何よりも相応しい青年。もう少し前なら少年と呼んでもおかしくはなかったであろう、若い男だった。
「あ! ごめんなさい。部屋から出したのはいいけど、男手が無かったからついついそのままになっていて……」
「うん。とりあえず、向こう側の奥に置いてあるから。また都合のいい時にでも戻しておいてよ」
「当分の間いいですかね? 新しい書架を入れたんですけど、仕事の方が立て込んでしまい、なかなか整理をしている時間がなくって」
「さあ……僕も管轄が違うから詳しくは言えないけど、あの通路って、特に使われてないよね。その一番奥の壁に付けてあるわけだから……いいんじゃないかな?」
「ですよね~」
 そんなやり取りがあって、青年が立ち去ろうとすると、先まで話していた書簡管理室の女官が再度声をかけて来た。
「パヴァロッティ様、パヴァロッティ様。もしかして、宰相補のところに行かれたりします?」
「うん。これから伺おうと思っているところだけど、何か?」
「でしたら、このお手紙渡していただけますか? 今日は二人も休みが出ちゃって。てんてこ舞いなんです、ここ」
 立場的には、正規の手続きを踏むよう言い諭さねばならないのだろうけど……
 まあ、いいか。
 女官から手紙を受け取ると、エミーリオ=パヴァロッティはひとり去っていった。


 宰相補。現在、ロレンシアでその地位にいるのはコンラード=フリーゼリ。
 彼と共にエミーリオの報告を受けていたヴァレンティーナは、例の如く一笑に伏すと、
「ミニチアーニの奴、ろくなことを考えぬな」
 その形の良い口元に冷笑を刻んだ。
「オクタヴィアンとはオクタヴィアン王のことか?」
「全てを聞き取ったわけではありませんが、おそらく」
 オクタヴィアン=ド・クリスタンヴァル。ロレンシアからレント山脈を挟んだ向こう側に位置する隣国、コーラール王国の現王。コーラールは賢王の名高いマティアス王以来、統治者に恵まれず衰退の一途を辿っていたが、ここのところ何やらキナ臭い話が流れてくるようになった。
「コーラールと繋がるつもりでいるのか」
「おそらく……」
 現在宰相は空位だったが、前宰相であるコンラードの父親は、常々自身と敵対する立場にある三大臣の動きに目を配っていた。その置き土産とも言える監視網は、宰相の引退後コンラードとヴァレンシアに引き継がれ、今もなお機構を保ち続けている。
「監視を続けよ。動きがあれば報告するように」
「はい」
「妙な動きをするようなら、灸を据える必要も出てこよう」
「しばらくは行方不明だと思いますよ」
 ヴァレンティーナとコンラードから理由を問うような視線を向けられ、その可愛らしい顔を花のように綻ばせたエミーリオは、何事でもないかのようにさらりと言ってのけた。
「閉じ込めちゃいましたから。当分の間出てこられないんじゃないでしょうかね?」


 おかしい……
「何故、開かんのだ」
 入ってきた扉が開かない……
 仮に外から鍵を掛けられたにしても、鍵ならばこちらも持っている。だから原因は別にあると思われた。
「押せども、押せども……」
 ぬぅうううっ、と渾身の力を込めてみたがびくともしない。どういうことなのだ、これは。
 汗だくの外相、ガブリエーレ=ミニチアーニは、途方に暮れた目で、まるで壁と一体化したかのような扉を見つめる。
「いかん、ランプの方がそろそろ……」
 明滅を繰り返す灯りはその後間もなく落ち、あたりは生ぬるい空気の中暗闇へと沈んだ。
「……」

 誰か~~~、ここにいるの! 開けて! 助けて~~~~~っ!


 かくしてミニチアーニが再度その頭上に外界の光を受けることができたのは、それより三日後のことだった。繋ぎに走っていた密偵が戻り、外相行方不明の噂にはたと思い至った彼が、地下通路へと続く扉を開けた。
「何故あのように沢山の荷物が……」
「知らぬわ!」
 問い質したい気持ちはあるが、まさか密偵と密会していて閉じ込められたなどと言えはしない。だから女のところに行っていたことにし、
「野暮なことは聞くでない」
 そう言って当たり障り無く収めようとしたのだが……
「その歳になってまた新しい女でございますか! 大概になさいまし、あなた!」
 妾妻の存在をきっちりと押さえている正妻が激怒。
「違う、違うのだ! これはな!」
「弁解ご無用!!」

 ロヴィアーノ・ロレンシア公国。
 金山と共に女傑の名産地としてもその名を誇っていたりする。



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