目覚めよと呼ぶ声あり T 

 ロマンスに憧れないほど枯れているつもりはないし、恋愛をあきらめてしまうほど終わっているつもりもない。
 でも、そういうのは時と場合と条件によるのであって、平凡とは言えないまでも安定した日常を手に入れつつある今、一体何を好き好んで我が身を波乱にさらさなければならないというのか。

 ことのはじまりはある春の日の夜更け。翌日の調合に使う薬草を選り分け、その他必要な器具なども取り揃えて、「さていい加減に眠ろうかな」と腕を伸ばした矢先、入り口のドアを叩く音が聞こえた。
 厄介ごとの気配。
 自慢ではないがそういうのは昔からよく当たるほうで、深夜の来訪者がこの国の第二王子だとわかった途端に、遠からぬ未来、自分が何かしらの騒動に巻き込まれているであろうことを確信した。
「頼みを聞いてほしい、ナディア。あまり時間がないので詳しくは話せないのだけど、とりあえず、」
―― 一緒に逃げてはくれないだろうか? ――
 たとえばこんな展開。即座に「Yes」と答えるならどんな時だろうか? 
―― ええ、着いて行きましょうとも、お慕い申し上げております、貴方様 ――
 身を焦がすほどの思い、前後不覚に陥るほどの感情をもってすれば 《あり》 だとは思う。本望と言う人がいても私はそれを否定しないだろう。ただ、残念ながら私と殿下の間にあるのはちょっと歪な友人関係であって、好奇心旺盛な王子様とそれに振り回されている市井の娘というだけのつながり。
「私には君を頼るほか術がないのだよ。この命助けると思って力になってはくれないだろうか」
 そんな、いきなり手を握って言われましても……
「困ります、私」
 シチュエーション的には非常にそれっぽいのだけれど、相手は純然とお願いをしているにすぎず、当然のこと私には前後不覚に陥るほどの激情はない。
 よって却下。
「ひとつだけお聞かせ下さい。お兄様やお父様……国王陛下はこのお話をご存知なのでしょうか?」
 私の予感では多分No。お忍びはいつものことだが、今日連れているのはいつもの従者ではない。初老の女官……となれば、それは母君様の代から仕えているという古参の侍女長殿か。気心も知れ、尚且つ腕も立つだろう従者殿は、従わなかったのか、はたまた従わせることができなかったのか。薄っすらとだが、殿下の置かれている現状が見えて来ようというもの。
「知りはしないよ。だって、そのふたりから逃れようとしているのだから、知られてしまっては意味がないだろう?」
……なるほど。国の最高権力者を敵に回して国外逃亡をはかろうと、そういう話ですか。兄君はともかくとして、先日退位を表明されたばかりの国王陛下は、稀代の名君としても誉れ高いお方。その目を欺いて逃げようだなどとそんなこと、
「無理」
「え?」
「無理です」
「だからそこを、」
「無理無理無理、ぜーったいに無理。何考えているんですか殿下、あなた」
 笑わせてくれるじゃないの、この温室育ちが。
 思わず握られた手を振り払い立ち上がった。
「不敬罪」
 背後から投げられた侍女の声、その地を這うような響きに息を飲むも、ここで怯みまるめ込まれてしまえば、待っているのはもっと恐ろしいもの。もっと恐ろしい罪であるのは明らかではないか。
 咄嗟に膝を折り、礼の姿勢を取る。これまではお忍びの上ご本人も望まれなかったから、ついついというか、簡略の限りを尽くし非礼と呼ぶに等しい行いもしてきたのだけれど、流石に今回はそういう訳にもいかない。殿下には現状をふまえた上で現実を理解していただく必要がある。
「お考え直し下さいませ、殿下。何ゆえこのダイダリエをお訪ね下さいましたかはわかりませんが、私如きでは到底殿をお守りすることなどできようはずがございません」
「そんなことはないよ、ナディア。君にしかできないことだ」
 さらっと言い返されました。
 えーっと……何を根拠に?
 冗談ならまだしも、真面目に言われているらしいから手に負えない。
 どうして……? と小首をかしげ、やや困惑気味に眉を寄せていらっしゃる。
 どうして……? とお伺いしたいのはこちらでございます、殿下。
 十六歳を大人とするか子供とするか。それを一概に決めてしまうことはできないだろう。この国の国民総平和ボケ状態を見れば、子供としてもまだ許されるような気がしないでもないのだが、如何せん殿下は王子様。王位継承権第二位の持ち主で、兄君様にもしものことあればこの方が次の国王陛下。国の未来が案じられても悲しいかなそれが現実。
 薄いアイスブルーの瞳を揺らし、毛先に向けゆるやかな螺旋を描く白金の髪を指先に絡めながら、何故自分の願いが聞き入れられないかを考えておられるらしい。
 ああ、こんな状況でさえなければ、その美しいお顔を間近で拝見させていただけますこと、この上ない幸せでありましょうに。
「私はようやく下級の扱いを受けるようになりました <薬種師> の見習いに過ぎません。ですから」
「知っているよ。でも、君って転職前は <魔導師> だったんだろう?」
 そっちの話ですかい。
「ですから……以前にも何度か申し上げましたとおり、 <魔導> は廃業して久しく今は薬学を究めるべく勉学の日々を……」
 何を望まれているかはおぼろげに理解したが、こればかりはいけない、いい訳がない。
 冗談じゃない――!
と語気も確かに否定しようとした、その時、
「追っ手にございます、殿下」
 いつの間に移動していたのか、入り口横の窓から外の様子を伺っていたらしい侍女殿が警告と共に戻ってきた。
「王宮からか? 早いな」
 世の中には災難に見舞われやすい <巻き込まれ体質> なるものが存在していると聞く。自分がそうだとは思わないが、残念ながら殿下の方が騒動をひき起こしてしまう巻き込み型の属性を有しているのだろう。
 だから、つまり。
 近くにいたのが運の尽き……?
「できたら聞かないで終わりにしたいと思っていたんですよ。そこのところはご理解下さいね」

 で、何されたんですか、殿下。

「まだ何もしてはいないよ。だけど逃亡自体が罪ということだろうねぇ、これは」
 疑問符? でも限りなく断定に近い? 一体全体何が……?
 溜息。
「で、どうします? 殿下」
 諦めにも似た呟きに初老の侍女が指し示した先……それはうちの裏口だった。




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