目覚めよと呼ぶ声あり U 

 で、何故か一緒に逃げてます。
 私まで逃げる必要はないと思うのですが、どうしてでしょう? アルゼルト・ルーン殿下。
「殿下ですか? いいえ、こちらにはお見えになっておりません……」
 追っ手と思われる兵士ふたりは、私の言葉に視線を交わすと、思いのほかあっさり引き下がった。
「夜分遅くにすまなかったな。戸締りはしっかりとするように」
「はい。お心遣いありがとうございます」
 何やら肩透かしをくらったような気持ちで振り返ると、侍女殿と共に書棚の隅に身を隠されていた殿下が埃をはらいながら出てこられた。
 ああ……掃除が行き届いてないですね。申し訳ないです……うわっ、侍女殿が窓縁の汚れを指先で確認しておられる! 何故ここで姑モード?!
「急ごう。ゆっくりとはしていられなくなったようだ」
「え? そうなんですか? なんだかさっぱり状況が見えませんけど」
 だから子細を問うてみるも詳しい説明は道々と言われ、アレヨアレヨという間に逃走。
 初老の侍女と温室育ちの殿下、道なき道を行くにはあまりにも不確かな足元を、梢の合間から漏れる月明かりとカンテラの灯りだけを頼りに導くという有様。
「難なく森に入れて助かったよ」
「難なくって、家の裏手はすぐ森ですから」
 家族も無く財産もろくに持たない女一人、王都の中心に居を構えられるはずもない。仕事柄薬草を取り扱うので、素材を手に入れるのにも適した街外れに小さな家を借りているというのは、まあ、都合が良いといえば良いのだけれど……
「たしかこの森は国境の森へと繋がっていたよね」
「でも、このまま歩いていけるようなところじゃないですよ」
「そのくらいのことはわかっているさ。朝になったら足になるものを何か手に入れよう」
「いえ、足っていうより、問題は湿地帯ですから、国境へ向かうのならはじめから迂回路を取らなくちゃいけないんですよね。国境の森に行かれるんですか? 殿下」
 当然とばかりに言うと、何故か返事がなかった。
「殿下?」
 そういう時、下手に掘り下げて聞くべきではないということをつくづく痛感した。でも、聞かなきゃ話は進まないわけで……
「……湿地帯?」
「はい、湿地帯です」
 もしかして、ご存知ありませんでしたか?
「地図の表記を見誤ったかな」
 どのような地図をご覧になったのかは存じませぬが……
 この国は国土の八割方を森林が占めている。人々は申し訳程度に開かれた土地に、町を築き暮らしを営んでいた。だから、便宜上“古の森”だの“迷いの森”だの名付けられた森は、そのあちこちが繋がっていて一見それを伝って行けば国境までたどり着くことも可能に思える。思えはする……ただ、その途中には湿地帯もあれば渓谷もある。川も流れていれば猛獣の生息地もある。結局、急ぐのなら人間の敷いた道を通るのが一番っていう寸法で。
「悪いことは申しません、今からでも引き返された方が……」
 暗澹たる気持ちに襲われ、再度の説得にわずかな望みを託してみた。
 声から察するに、殿下は苦笑を浮かべられた模様。
「それは出来ないのだよ、ナディア。王宮にはもう私の居場所はないのだから」
「……」
 何かが動くだろうというのは、国民全てが感じていたことではないかと思いますです、はい。
 二週間ほど前に王太子殿下(今私の横におられる殿下のお兄様)とお妃様の間に初めてのお子様がお生まれになった。長らく子宝に恵まれなかったご夫妻がようやくの思いで授かった待望の男の子。それはそれで喜ばしいことなのだけれど、国中を埋め尽くす祝賀ムードの中、誰もが一度は考えたのではないかと思われるのが、殿下の所持しておられる王位継承権の存在。
 今のところ殿下の継承権は第二位。兄君様がご即位されれば、当然のこと繰り上がって第一位。そう、兄君様に男のお子様がお生まれになったというのに、王位継承権は変らず殿下の元にある。どうやらこの国独自のシステムらしく、外から来た上平民でしかない私には馴染みも薄いのだけど、兄君立太子の折、本来次に据えるべきお子様が無かったため弟である殿下に位が回ってきたという話らしい。
 国王が健在で王太子に子供がいないなんてこと別によくある話じゃない、とは思うのだけど、この国では立太子の条件に跡継ぎの有無があったりする。だからだいたい王子は早婚で、さっさと子供を儲けた後立太子して父親の補佐につく。実務優先だから政務に携われないような年端もいかない子供では意味がない、というのも含むところとしてはあるらしい。
 殿下の兄君が立太子されたのは二十五歳と非常に遅い。先例に従い結婚は早かったが、ただひとつ子供という条件がなかなか揃わなかったためだ。それで止むを得ず弟である殿下を次に据えてとりあえずの体裁を整えた。
 そしたら生まれちゃったわけ、お子様が。しかも男の子っていうオチ付きで。これが仮に姫君であったなら、育てて殿下のお妃にするという手もあるのだけど、男の子だとねぇ……もうどうにも……
 いっそのこと殿下の継承権を破棄ということにしちゃえればいいのでしょうけど、立太子の儀式が絡んでのことだからあれこれ難しいらしく、このままだと兄君様のお子様は跡を継げないということになってしまう。
 そう。
 殿下が生きておられる限りは……
「でも、居場所がないだなんて、そんな。戦乱の世ならいざ知らず、今のご時勢で父君も兄君も殿下のお命まで摘むような真似はなさらないでしょう」
「うん。死ねとはおっしゃられなかった」
 思いのほかあっさりと言われ、最悪の展開ではなかったことに胸をなで下ろした。賢王の呼び声も高い稀代の名君がいたずらに世を騒がす愚策など取られるはずもないのだけれど。
「それでしたら……」
「たしかに死ねとは言われなかったが、そのかわり女になって兄上の妃になるよう命じられた」
 王子、兄弟、女、お妃……一見相反するように思われるこれら四つの言葉。
「ああ……」
 しかし、これらは私の横にいる少年を前にしかと成立する。兄君様とは異母兄弟。殿下の母君様は確か……
 だから「もしや」とは思っていたのだけれど。
 やはりそうか。
 男とするにはあまりにも華奢な体つき。母君の生国がミージアであることを知る者なら、結論を導くのはそう難しくないだろう。母君の血が濃く出てしまったのだ、この方は。

「もしかして殿下、まだ性別が確定していないのですか?」




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