花守綺譚
 〜咲くや、この花〜 10



 相手の動きに合わせ、こちらが追おうとすると、途端に逸らす。焦らされているのだと思うと癪に障って、自らその唇を塞いだ。
 仰向けに寝そべる男に身を寄せ、くちづけを交す。回された腕が肩を抱き、やがて、流れる髪を弄ぶかにして指に絡めた。
 鼻先をかすめる夏草の香り。地面に触れる肌には冷たい土の感触が貼り付いている。
「で? 好きな人でもできた訳?」
 いつ聞いてやろうかと考え、一番効果的なタイミングを狙ったつもりだが、相手は爪の先ほども堪えていないのか、余裕の笑みを浮かべているだけである。
「その人の胸が、小さくても形が良かったって、そういうことなのかしら?」
 やーらしい、と一瞥をくれてやったものの、高嶺からはそれ以上の反応が返ることはなかった。
「その分だと、振られるか何かしたみたいね」
 横に座りなおし、朱音は膝を抱えた。
「ご愁傷様」
 なおも笑っていやがる。つくづくと癇に障る男だ。
「それで? 答えとやらは見つかったわけ? 二年もふらふらしといて、何も得られなかったってことはないでしょうね?」
「まあ、それなりに」
 ふん、と。相変わらず多くは語ろうとしない高嶺に、冷ややかな視線を降らせ、それを逸らした。
 頬杖のまま見上げた先には、まだら雲の向こう側に青色の空が広がっている。夏が来るまでにはもう一寸の時を必要とするだろうか。まだ、雨が降り足りないと言っているようにも思える。
 気をつけてはいたつもりだが、生成りのワンピースには所々汚れが浮んでいた。草色の染み。それを指先でつまみ、吐息する。颯斗への言い訳を考えるのは面倒であり、かといって、自分で洗うことを思うと、それもまた億劫である。
 ニ年……隣に寝そべる馬鹿男が出て行った時、朱音は十四だった。それからの二年は瞬く間に過ぎた。
「私が《花和ぎ》を継ぐんですって。早智君のお母さまが亡くなったから」
「聞いた」
 返る答えは素っ気無いまでに短い。
「こっちも、あんたがいない間に色々とあったのよ」
 肝心な時にいなかったくせに――
 言外に批難を滲ませ、なじるかにして零した。
 苛つく。この男といる時はいつもそうだ。どうしようもなく苛つく。
 別に、この関係に未来があるとは思っていない。五年も先になれば、それぞれ横にいるのはまた違う相手なのだろうとすら思う。
 たまたま十代の頃のひと時を共に過ごすことになっただけの間柄。
 あまりにもお互いのことを知りすぎていて、それぞれ相手が心底求めているのが自分ではないとわかっていた。高嶺は朱音の欲するものを与えてはくれないだろうし、朱音もまた高嶺の心を満たしてやることはできない。長の時を共とし、誰よりも親しくはあるが、故にお互いの限界も見えている。
 だったら何故?――と、問われたとすれば、きっとこう答えるだろう。
(近くにいたからでしょうよ)
 それ以外の何があるというのか。閉ざされた世界に生きている。選択肢など最初から限られていた。
 だから、
(若気の至りね)
 それでよしとするふたりが、たまたま傍らにいただけ。いずれ、時至れば素知らぬ顔をして離れていくだろし、そのことについて恨みがましく言うつもりもない。高嶺は割り切るだろうし、自分もきっとそうするだろう。
 ただ、時に触れ、折に触れ、思い出すことはあるかもしれない。相手が瞬く間に自分のことを忘れても、この息詰まるような緑色の光景は、記憶の奥底に留まり、ふとした瞬間によみがえる。
 あざやかに。
 そう、それはどこまでもあざやかに……
 今の関係に不満があるわけではないが、ただその一点だけは気に入らなくもあった。
「本当……損な性分」
「は? 何がだ?」
「いーえ、別に」
 素っ気無く言うと、朱音は今一度体を傾けた。仰向けに寝転がる高嶺に身を寄せ、再度口づける。
 愛してなんかいない。
 そんな綺麗な感情なんて、この体中どこを探してもありはしない。
 だから、この関係に未来が無かったとしても、それはそれで仕方のないことなのだろう。
 大嫌い。
 言葉を刻むことで憤る感情をなだめる。
 大嫌い、大嫌い、大嫌い。
 どうしてだかは知らない。でも、そうすることで不思議と心が落ち着く。
 嫌い……
 水の音が聞こえたのはその時だったか。
 何ごと? と振り返ると、生茂る荻の群生の向こうから歩いてくる人影が見えた。
 ずぶ濡れの夏――
「どうしたのよ、それ……」
 まるで泳いできたとでも言わんばかりの姿に言葉を詰まらせる。
「家の近くで足を滑らせちゃって。這い上がるのも面倒だから流されてきた」
 彼が住んでいる空木邸は谷の最奥。ここまで流されてきたとなれば、それは結構な距離なわけだが……
「大丈夫なの? あんた」
「うん、平気」
「気をつけて帰りなさいよね……」
「ありがとう。じゃあね、朱音ちゃん」
 ひらひらと手を振って行く夏を、高嶺とふたり見送る。
 水辺から羽音があがったかと思うと、甲高い鳥の鳴き声が空に響いた。

* * *


 今も尚色濃く、城下町の佇まいを残す道。
 藍色の着物に身を包んだ女が歩く。日傘にしては大振りな臙脂色を羽織るかにしてかざし、ゆっくりと、春まだ浅い北国の古都を行く。
 背中で切り揃えた黒髪が風に揺れ、のぞく白い顎、紅い唇。乱れた髪をなおそうと、左手の指が頬から耳へかけて流れる。
 その時である。ほんの一瞬だけ女の顔が映った。切れ長の目がカメラをとらえたかと思うと、すぐさま臙脂の傘がそれを隠し、カメラもまた、視点を切り替えて街並みを映すに戻った。
 早智はリモコンの停止ボタンを押す。部屋の灯りをつけないでいたため、電源を落とすと共にあたりは闇に沈んだ。しばし無言のままその中に身をうずめていたが、やがて立ち上がると深夜の談話室を後にした。

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