花守綺譚
 〜咲くや、この花〜 17



「……、そうしてこの世は人の手に委ねられた。が、男神と女神がいつお目覚めになるかは、残念ながら誰一人として知らぬ」
 朱鷺子が話し終えた時、輪になり聞き入っていた子供たちは、皆、床に寝転び、夢の虜と化していた。
「ご足労をおかけいたしました」
 塾頭の言葉に「何、他愛のないことよ」、と軽やかな声で答え、そのまま静かに立ち上がる。
 花守の最高齢であり、《花凪》の、巫覡の束ねでもある彼女は、座敷に設けられた席に着くと、熱い茶に吐息し、向かいの塾頭が述べる経過報告などに耳を傾けていた。
 朱鷺子の横には朱音が控えている。
 老いが見えるようになったとはいえ、未だ美しさが際立つ佳人。一部の隙も無く和装を着こなし、すっと背をのばした様を見ると、慣例に従い婆と呼ぶことなど躊躇いを覚えるほどだ。
 朱音はいずれ、彼女の跡を継ぐと決められている。
「二三日はあのままでも平気でしょうが、あまり長い間はいけませぬぞ。無理に歪めてしまっては、逆に子供たちの心に陰を生みましょう」
「わかっております。《譲葉》の方からも、そう長くはかからないとの旨、連絡を受けております」
 不安に怯える子供たちは、朱鷺子の手により夢の中へと誘われた。事が済むまでの間、彼らの心は、この緊迫した状況から隔離されたのだ。
 昔語りを聞きながら、ひとり、またひとり、と子供たちが意識を手離していく。朱音は朱鷺子がする様をじっと見ていた。あざやかな手腕に、言葉無く、見惚れた。
 安らかな寝顔が思い出される。きっと彼らは、久方ぶりの安息を得て、心地よい眠りをむさぼっているのだろう。
「来週あたりにはあけると聞きましたが、もういい加減、このはっきりしない空模様にも飽きましたな」
 塾頭が、溜息混じりにこぼした。
「本当に。雨も良いものではあるが、今年の梅雨はいささか鬱陶しくもある」
 最後に晴れ間を見たのはいつのことだろうか。延々とぐずついた天気が続き、中休みという言葉すら今年は聞かずじまいに終わりそうだ。
「案外、庭の紫陽花さえ、大概にしろと言うておるやもしれぬな」
 朱鷺子は笑い、わずかにあけられた障子の隙間から外を眺めた。
 雨足は少し弱まったかもしれない。
 濡れそぼつ深緑。本来なら梅雨を謳歌しているであろう紫陽花の花が、どこか申し訳無さそうに、ひっそりと色を添えていた。

* * *


 子供たちが寝入ったため、訪れる者のない遊戯室はガランと広く、まるでひとり放心しているかのように思えた。
 里山の向こうには斜峰連邦を望むことができる。夕暮れ迫る中、暗色に沈もうとするそれを、颯斗は窓際にまで歩み寄りじっと見つめた。
 雨は止み、風も凪いでいる。ただただ、穏やかな夜を待つばかりだというのに、そうはさせてくれない何かが、ひっそりと隠れ潜んでいるように思えた。
「今日はご飯もうちょっとかかるって」
 後から入ってきた和馬が伝える。午後は寝付いた供たちを部屋に運ぶなどして、手を取られることが多くあったため、食堂の方の準備が押しているのだろう。
「和馬も一緒に寝たら良かったのに」
 颯斗が茶化すかにして言うと、
「いくつだと思ってんの。もう小学生じゃないんだよ」
 頭ひとつ分小さな少年は、不満をあらわにし、ぷくりとふくれて見せた。今年中学に上がった和馬は、一学年間を挟むとはいえ、年齢的には颯斗のすぐ下の男の子ということになる。もう、去年までいた省吾も、弥彦と与彦の兄弟もいない。人として生きていくための術を学び、合格を言い渡された子供たちは、親元へと、外の世界へと、戻されてゆくからだ。
「僕は長期組みになるみたいだけどね」
 親の都合により、最低でもあと二年の滞在が決まっているらしい。同級生たちが次々に去っていく中、ひとりあっけらかんとして構え、花守での生活を楽しんでいるようだ。
 来年はいったいどんな面子と共に過ごすことになるのか。それは多くの者たちを向かえ、見送ってきた颯斗にもわかることではなかった。
「そろそろ行く?」
「そうだな。行くか」
 二人連れ立ち遊戯室を後にする。寮舎へと続く渡り廊下に差し掛かる頃になって、ふと颯斗は足を止めた。再び、藍色の空に黒く塗り込められた斜峰連山の方を見る。
「どうかした?」
 いぶかしむ和馬が何事かと問うが、「しっ」と言うことでそれを制し、透明な夜気の向こう側に耳を澄ませた。
「笛の音が聞こえる」
「笛?」
 和馬は小首を傾げた。どうやら彼の耳は、その音をとらえることができないでいるようだ。
「《囃子部》が出ているのか」
 いつの間に来ていたのか、横に立ち、颯斗が見ていたのと同じ方角、漆黒の斜峰連山を見据え、早智が言う。
「大掛かりな狩りになるんだ」
「狩り……」
 颯斗は確かめるかにしてつぶやく。
 狩り……
 それは今まさに、あの山の中で行われようとしている。
 彼ら《伽羅》が《ナナツ》の者共を狩る。獲物である民が、その捕食者を狩るのだ。
 狩り手の中には見知った顔もあった。誉は今、あの暗い山の中でそれと対峙している。彼の手が赤く血に染まるのを見たような気がして、その忌々しいイメージを打ち消すべく、颯斗は頭を振った。
 相手も人であるという。彼ら《伽羅》が人を名乗るのと同じに、《ナナツ》の者にしても、元を辿らば行き着く先は同じ。
 神の試作品。
 意図的に作られ、けれど双方主流になることはなかった。
 片や長命の一族。片や、それを食わねば生きられぬ短命の一族。
 人が人を狩る。どちらも大義は生きんがため。
 いずれ、早智も行ってしまうのだろうか? 自らの血に従い、あの戦場に身を投じる。
 ここ花守を離れ、颯斗の元を離れて、
 早智は……
 薄闇に溶けようとする横顔を見つめながら、颯斗は言い知れぬ不安に立ち尽くした。
 行ってしまう。
 行ってしまうのだろうか、彼も……

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