花守綺譚  〜 だから僕は楽園を夢見る 〜 7


6.
 颯斗が眠りについて四日。
 霧雨にけむる土曜の昼下がり、花守塾に来訪者があった。
 藍染めつむぎに白髪の混じる髪を結い上げ、すっとのびた背筋が印象的なその人の名は、空木朱鷺子―――ここ花守で代々里長を勤める家、空木家の家刀自である。
「よもやこの婆が出張ることになろうとはの」
 独特のイントネーションが言う。若い頃を京の町で過ごし、老いたとはいえ未だ華ある佳人は、ゆっくりと曇天に沈む回廊を進んだ。
“潜行”を試みるのだという話は朱音から聞かされた。早智も同席を許されている。玄関まで出迎えた早智に、朱鷺子はいつものように笑んで、いつも早智に言うのと同じ口ぶりで、
「おまえの母御はよい術者であった」
 と言った。それは、母の夭折を悼んでいるのか、はたまた早智の力の喪失を惜しんでいるのか。朱鷺子に会うたびに頭をもたげる疑問ではあったが、早智がそれを問うことはなかった。
 聞いてもしかたのないこと……
 そう思っていたからかもしれない。
 暗示というか、呪いというか、人心を操る術は女たちの方が優れている。
 中でも朱鷺子の腕は卓越していて、名実相伴い彼女は里の重鎮、一族のお婆様としてあがめられていた。
 その朱鷺子が後継として白羽の矢を立てていたのが、青桐未知、自らの母親であると知ったのは、母の死後、早智が花守に身を寄せてからのことだ。
 今、朱鷺子は朱音を傍に置いている。彼女の才に先を見たのだろう。女の場合この力が花開くのは二十歳を過ぎてからだという。対して男は早熟だった。男の子がこの力を備えていた場合、長ずることなく子供のうちについえてしまう。それは早智とて例外ではなかった。母から譲り受けた力はもう残り少ない。
 朱鷺子を交えた談義の末、対象は和馬にすることと決まった。和馬が眠りはじめて今日で九日、体にも限界というものがある、あまり悠長なことを言っている時間はない、それが大人たちの見解だった。早智が五歳の時に十二日間眠ったことを告げると、はなはだ異例だ、今でも語り草になっている、などと言い大人たちは大いに笑った。
 奥座敷に布団が敷かれ、その上に和馬の体が横たえられた。颯斗のものより繭が濃いように思うのは、個体差なのか、時間の経過によるものなのか。
 朱鷺子は和馬の手を取り瞑目する。すでに、そこに彼女の心はなかった。和馬の中奥深くに降り立ち、眠る彼の意識と接触を試みようとしている。
 横に座る朱音がじっとそれを見つめていた。
「ドキドキする。人の心に入り込むだなんて。いつか私にもできるかしら。きっと婆様クラスの術者にならなきゃダメよね」
 そう言ったときの朱音はめずらしく高揚していた。無理もない。これがどれだけ大変なことかは、この場を支配する緊迫感が何よりも雄弁に物語っている。
 繭ごもりとは、その名が示すとおり蛹の状態でもあるのだ。昆虫のそれが一度各器官をバラバラにして成体として組みなおすように、彼らの体にも生じた能力によって相応しい変化がもたらされている。外部からの衝撃、まして精神への接触など、ひとつ間違えば対象が受ける被害は甚大なものとなる。
 ゆえに、朱鷺子の口から「だめじゃ」という吐息にも似た呟きが漏れた時、室内の空気はまるで氷点にでも達したかのようにしんと凍った。
「おらぬ。ここにはおらぬ」
 朱鷺子は首を横に振る。
「空木の、それはどういうことだ。おらぬ? おらぬとは何だ、わかるように言うて下さらんか」
 ずい、と身を乗り出して、樹の爺こと樹遼太郎が問うた。
 ここ十年ほどの間、花守塾の塾頭はこの爺が勤めている。
「おらぬ」
 再び言って、朱鷺子は一同に向き直った。
「もぬけのからじゃ。体の中に心がおらぬ」
 ざわ、と室内が喧騒に包まれた。樹、赤松、海棠の三爺がそれぞれに唸り声を上げると、次の間に控えていた九郎と鷹虎が顔をのぞかせた。それへ向けて朱鷺子の檄が飛んだ。
「狼狽えるでない。別の者をこれへ。誰でも良い、いま一度試してみようぞ」

 暗転から一転、あたりは白色の世界へと変わった。
 一瞬の出来事に早智は何が起ったのか解らなかった。上下左右、己の体以外何ひとつ無い空間に、早智はひとりきりで浮んでいる。
 和馬に代わって運ばれてきたのは颯斗だった。朱鷺子の節くれだった、それでいてすべらかな指が、颯斗の左手を取る。心もち、和馬の時より緊張の度合いが強いように思え、早智は心のうちで和馬に詫びた。ほんの少しだけ、きっと颯人の方が大事なのだ。  朱音は微動だにせず、じっと事の成り行きを見守っている。
 雨足が強まったのか、閉め切った障子の向こう側で窓を打つ雨粒の音が聞こえはじめた。バラバラと、大粒の雨が硝子窓をたたく。
 合わせるようにして柱時計が三時を打った。
 ひとつ、ふたつ、みっつ……と、音を数えていた早智は、次の瞬間、何かしらの力が加わるのを感じた。強く引かれ、あらがう間もなくぽんと宙に投げられるような感覚があった。
 暗転、そして、また一転。
 白色の世界は上下すらなく、二度三度と体を回しているうちに早智はおぼろげながら現状を察することができた。
 早智の意識は体から切り離されたのだ。
 この浮遊感を早智は知っている。今はもう難しくなったものの、小さかった頃はこうして自在に空を行くことができた。
 ただ、今こうして在るのは早智の意思ではない。あざやかな手腕といい、手練であることは承知。
「婆」
 早智は呼んでみた。連れ出した以上、捨て置くはずもないだろう。
 やがて、朱音を伴った朱鷺子が早智の前に姿を現した。

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