二月寓話 8
階段下の物置に入る。小窓からの光が左奥にある扉を照らしていた。この部屋の向こう側は温室になっている。けれど、温室の方には物置へと通じる扉などないのだ。
どうしようか。本当に開けてもいいのか。ここへ来て迷う。
開けてしまえば何かが変る。確実に変る。きっともう元に戻ることはできない。
それでも……
鼓動の高鳴りを浅い呼吸で散らして、夏はドアノブに触れる。
時計が二時を打った。
ゆっくりと覗いた扉の向こう側。一面にたちこめている白い靄は霧か。踏み出したところを長い蔓状の植物によってはばまれた。
温室ではない。家の中とも外とも判別がつかない。まさか、異界にでも通じているというのか。
見るからに寒々しいところだと夏は思った。蔓をかき分けようとして、何やら棘を持った植物に腕を傷つけられる。よく見ると、あたり一面はおびただしい量の野ばらで覆い尽くされていた。
侵入者を拒む様は、まるで僕の心の中のよう
がんじがらめに蔓をはびこらせて、鋭い棘でもって傷つかないように自らを守っている。
「おや、宿主殿ではないか。ついに参られましたか」
いつかの日に見た官女がひとり、十二単のような衣装を身につけ、ぼんぼりを手に携えながら出てきた。
「ここも随分明るくなってきましたゆえ、そろそろではないかと思うておりましたが」
女官の視線を追うと、その先には灰色の空を透かして、ぼんやりと浮ぶ白いものが見えた。
“暗い太陽”、麗が言っていたのはあれのことか。
「我らが生きるには、少しばかり明るすぎますなぁ」
「まことに、惜しいこと惜しいこと。そなた様の下さる光は、柔らかくて心地よくて、我らこの上なく満足しておりましたのに」
似たような顔の女がもう一人出てきた。それだけではない、どうやら他にも幾人かいるらしく、薄暮にも似た薄い闇の中に、ぽつりぽつりと灯りが見え隠れしていた。
「行っておしまいになるのですか?」
「え? あの……それは……」
「姫様がお分け下された命、ゆめゆめ粗末になどなさりませぬよう」
「わが子のようにお育ていただいたことも忘れてはなりませぬ。命を分けたとなれば我が身を分けたも同じ。手離される痛みがいかほどのものか、想像に余りまする」
命? 煌の命 ?
夏は左胸のあたりを押さえ、思わず後ずさった。それを見た女たちは鈴を転がすような声で笑い、
「しゃんとなさいませ。姫様と袂を別とうというお方がこのくらいのことで気後れなどしてどうなさる」
「所詮はもののけのたわごと。別れのはなむけとしてでもお受け下され」
「僕が出て行ったら、ねえ、ここはどうなるのさ」
夏の問いに女官の二人は顔を見合わせる。
「ご案じめされるな。次のお宿を探すまでのこと。我らはそうして人の心を渡り歩いてゆくもの」
「正直を申せば、これほどに早くとは思うておりませんでしたか。そなた様はご長寿の身なればこそ」
ならば、いっそのこと夏を閉じ込めて外になど出さなければよかったのだ。何も見せず、何も知らせず、枯れない程度に愛情を与え、程よく孤独感をあおりさえすれば、この世界はもっと長く保たれたのではないか?
「颯斗はどこ?」
「姫様のお客人なら、そこに」
官女の指がすっと動くと、足元から吹き上がる風が霧を払った。ほおずきか、はたまたそれを模した灯篭だろうか、内側から光る朱色の明かりに照らされて、颯斗の体が地面に横たえられていた。
「道なれば、こちら」
蔓と棘の中にひらかれた道を、夏はひと息に走った。
颯斗は憎らしいほど気持ちよさそうに眠っている。ほっとひと息ついて、その横に膝を折ろうとした刹那、
「夏!」
遠くからの呼び声に顔を上げた。呼んだのは煌だ。早智もいる。早智が、夏が通ったのと同じ道を駆けて来ようとしている。
「ひとつだけ言っておくわ! どこへ行っても同じよ。たとえ伽羅の群れに帰ったとしても、あなたはまた心無い人の言葉に傷つくもの。あなたが変わらないといけないのよ!」
煌や女官のいる方に向かって霧が晴れてゆく。そこには蔦や麗の姿もあった。他にも大勢がいる。森の中でむかえたあの始まりの日と同じように、皆が一団となって夏のことを見ている。
気付いた時には走り出していた。
「待って!」
どうしても聞かなければならないことがある。
全てを仕組んだのは君か、煌。
颯斗をこの部屋に隠したのは、僕に扉を開けさせるため?
開けるか開けないか、僕にどちらかを選ばせたの? ねえ。
開けてしまえば僕たちは終わる。
終わりを望んだのは、ねえ、君だったというの ?
霧は一団を包み込み、いずこかへ連れ去ろうとしている。走っても、走っても、追いつかない。後ろ側は元の温室に戻ろうとしていた。
優しい麗。不器用な煌。
「ねえ! どこへ行のさ! そんなの嫌だ。突然にだなんて嫌だ!」
「何を言うの、夏っ」
煌が叫んだ。
「夢なんて、」
「夢なんて?」
夢なんて……
「夢なんて、いつも一瞬で覚めるのよ!」
どうしようか。本当に開けてもいいのか。ここへ来て迷う。
開けてしまえば何かが変る。確実に変る。きっともう元に戻ることはできない。
それでも……
鼓動の高鳴りを浅い呼吸で散らして、夏はドアノブに触れる。
時計が二時を打った。
ゆっくりと覗いた扉の向こう側。一面にたちこめている白い靄は霧か。踏み出したところを長い蔓状の植物によってはばまれた。
温室ではない。家の中とも外とも判別がつかない。まさか、異界にでも通じているというのか。
見るからに寒々しいところだと夏は思った。蔓をかき分けようとして、何やら棘を持った植物に腕を傷つけられる。よく見ると、あたり一面はおびただしい量の野ばらで覆い尽くされていた。
侵入者を拒む様は、まるで僕の心の中のよう
がんじがらめに蔓をはびこらせて、鋭い棘でもって傷つかないように自らを守っている。
「おや、宿主殿ではないか。ついに参られましたか」
いつかの日に見た官女がひとり、十二単のような衣装を身につけ、ぼんぼりを手に携えながら出てきた。
「ここも随分明るくなってきましたゆえ、そろそろではないかと思うておりましたが」
女官の視線を追うと、その先には灰色の空を透かして、ぼんやりと浮ぶ白いものが見えた。
“暗い太陽”、麗が言っていたのはあれのことか。
「我らが生きるには、少しばかり明るすぎますなぁ」
「まことに、惜しいこと惜しいこと。そなた様の下さる光は、柔らかくて心地よくて、我らこの上なく満足しておりましたのに」
似たような顔の女がもう一人出てきた。それだけではない、どうやら他にも幾人かいるらしく、薄暮にも似た薄い闇の中に、ぽつりぽつりと灯りが見え隠れしていた。
「行っておしまいになるのですか?」
「え? あの……それは……」
「姫様がお分け下された命、ゆめゆめ粗末になどなさりませぬよう」
「わが子のようにお育ていただいたことも忘れてはなりませぬ。命を分けたとなれば我が身を分けたも同じ。手離される痛みがいかほどのものか、想像に余りまする」
命? 煌の命
夏は左胸のあたりを押さえ、思わず後ずさった。それを見た女たちは鈴を転がすような声で笑い、
「しゃんとなさいませ。姫様と袂を別とうというお方がこのくらいのことで気後れなどしてどうなさる」
「所詮はもののけのたわごと。別れのはなむけとしてでもお受け下され」
「僕が出て行ったら、ねえ、ここはどうなるのさ」
夏の問いに女官の二人は顔を見合わせる。
「ご案じめされるな。次のお宿を探すまでのこと。我らはそうして人の心を渡り歩いてゆくもの」
「正直を申せば、これほどに早くとは思うておりませんでしたか。そなた様はご長寿の身なればこそ」
ならば、いっそのこと夏を閉じ込めて外になど出さなければよかったのだ。何も見せず、何も知らせず、枯れない程度に愛情を与え、程よく孤独感をあおりさえすれば、この世界はもっと長く保たれたのではないか?
「颯斗はどこ?」
「姫様のお客人なら、そこに」
官女の指がすっと動くと、足元から吹き上がる風が霧を払った。ほおずきか、はたまたそれを模した灯篭だろうか、内側から光る朱色の明かりに照らされて、颯斗の体が地面に横たえられていた。
「道なれば、こちら」
蔓と棘の中にひらかれた道を、夏はひと息に走った。
颯斗は憎らしいほど気持ちよさそうに眠っている。ほっとひと息ついて、その横に膝を折ろうとした刹那、
「夏!」
遠くからの呼び声に顔を上げた。呼んだのは煌だ。早智もいる。早智が、夏が通ったのと同じ道を駆けて来ようとしている。
「ひとつだけ言っておくわ! どこへ行っても同じよ。たとえ伽羅の群れに帰ったとしても、あなたはまた心無い人の言葉に傷つくもの。あなたが変わらないといけないのよ!」
煌や女官のいる方に向かって霧が晴れてゆく。そこには蔦や麗の姿もあった。他にも大勢がいる。森の中でむかえたあの始まりの日と同じように、皆が一団となって夏のことを見ている。
気付いた時には走り出していた。
「待って!」
どうしても聞かなければならないことがある。
全てを仕組んだのは君か、煌。
颯斗をこの部屋に隠したのは、僕に扉を開けさせるため?
開けるか開けないか、僕にどちらかを選ばせたの? ねえ。
開けてしまえば僕たちは終わる。
終わりを望んだのは、ねえ、君だったというの
霧は一団を包み込み、いずこかへ連れ去ろうとしている。走っても、走っても、追いつかない。後ろ側は元の温室に戻ろうとしていた。
優しい麗。不器用な煌。
「ねえ! どこへ行のさ! そんなの嫌だ。突然にだなんて嫌だ!」
「何を言うの、夏っ」
煌が叫んだ。
「夢なんて、」
「夢なんて?」
夢なんて……
「夢なんて、いつも一瞬で覚めるのよ!」