kitan

 女の子のテーゼ 2


(二)
 高校のある町からJRで二十分。バスに乗り換えてさらに十五分。先の大合併で桃栗町と名を変えた旧八咲村は、人口三千人ほどの小さな山村である。
 そして、その八咲村も奥の奥、地元住民からも僻地だの秘境だの魔境だのとありがたいお言葉をいただく星神山の懐にあるのが、朱音たちの暮らしている花守の里だった。
 バスは分校の前までしか行っていないので、そこから先は徒歩ということになる。 コスモスは今が見頃か。白にピンクに赤紫。空は高く青く、道はゆるやかなカーブを描きながら奥へ奥へと続いて行く。
 澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、今日一日で溜まった毒素が体の中から溶け出していくような気がした。
岩を打つ滝の音。水の匂い。濃厚なる山の息吹に眩暈すら覚える。
 だから、この件に関しては両親の判断も強ち間違ってはいなかったのだと、そう思うことができる。
 朱音と颯斗の両親。戸籍上の話をすれば、ふたりの母親は二番目の姉の涼香ということになっている。実の親は別にいて、父は確か今年喜寿を迎えるはずで、母に至ってはとうの昔に百越えているという話以外、本人非公開のため定かではない。とてもではないが、十代の子を持つ親として世間様に公表できるような状態にはなかった。 とはいえ、それは長生種である彼らが社会生活を穏便に送るためにも必要な小細工であり、そのことについてどうこう言うつもりはない。
 朱音がこの隠れ里に連れて来られたのは、三歳になっていくらもしない頃のことだ。あの時に車の中から見た峠の景色が、彼女が思い出せる中で一番古い記憶として残っている。颯斗などまだ乳飲み子だったはずだ……
以来、両親とは数えるほどしか会っていない。かつては名のある考古学者だったという彼らは、戸籍を乗り換え、名を変え肩書きを変えた今も、この地球上のどこかで忙しなく土を掘り返しているのだろう。
「いいけどね、別に」
 山肌に咲く萩の群生が美しい。斜陽に映える赤紅色が霧雨のように降り注ぎ、朱音をすっぽりと包み込んだ。それは彩りの頃を謳歌する、この野生の花の歌声であるかにも思われた。
 植物の、また動物の、生命の脈動とでも呼ぶしかないものを、朱音は見ることができる。
 人いきれに苦痛を覚えるのは、彼らの持つ濁った負の感情に肌を焼かれるからだ。見えないということは、それだけ幸福なのかもしれない。彼らはあまりにも無防備で、自らがいかに己を曝け出しているのかを知らないでいられるのだから。
 人の世は、いささか過剰な能力を持った、彼ら一族のような者たちには生き難い世界なのかもしれない。
 だから、子供の頃のひと時を、この穏やかな静寂の中で過ごすことの重要性を痛いほどに感じる。それは、弟の颯人と早智との違いを見ていてもわかることだ。山猿の如く伸びやかに、大らかに育った颯人と比べ、里の外で育った早智や虎太郎などはその気質にいささか不安定な面を見ることが多い。
 とはいえ、かく言う自分は、たかだか人口二万ほどの町に出ただけでこの体たらく……
 朱音は己の行く末を思い、しばし瞑目した。
 クラスメートから受けるあからさまな敵愾心は嫉妬なのだろうか。
「アタシってば、ほら、何でも良くできるから」
 それにしても、そんな朱音を貶める手法として選ばれたのが「田舎者扱い」とはこれいかに。確かに、里は僻地だ、秘境だ。それは否定すまい。けれど……である。
「なにさ、自分たちだって、所詮“ぐんみん”じゃないのよ」
 “ぐんみん”とは“郡民”と書く。区民でもなく市民でもなく郡民。所詮彼らはひとまとめにして郡民。
……程度低すぎ。
 真面目に悩むべきかどうか、いまひとつ真剣になれないのはきっとそのせい。


 ともあれ、石橋慶介に対しては早急に何らかの手を打たなければならない。
目下の障害は奴なのだ。このままでは人ゴミに適応する以前に、妬みと嫉みでカラカラの日干しにされてしまう。
 山肌に添ってうねるように続く急勾配。車一台通るのがやっとという、その陰鬱な坂道を抜けると、ぱっと視界が開け花守の入り口が見えてくる。
 畑仕事の手を止め迎えてくれたのは一位の婆だ。朱音は手を振りそ
れに応えた。
 そもそも慶介が朱音に執着する理由とは何なのだろう?
 恋? 私に?
 そうではないということぐらいわかっている。それがわからないほど鈍くはない。純然たる好意であれば、こうまで悩むことはなかったのだ。
 新手の嫌がらせとか?
 だとしたら、手の込んだことしてくれるじゃないの。まったく。
 真相は依然として不明のままだが、押され気味なことに憤懣やるかたない自尊心が、
「いい加減にしやがれ、この(以下朱音ちゃんのイメージ保持のため自粛)野郎!」
 と、やさぐれモード全開で息巻いている。
 向こうに何かしらの腹積もりがあるというなら、こっちもひとつかましてやろうか。
 でも、どんな手段で?
 たとえば……
 そう、誰か適当な相手をでっち上げ、恋人に仕立ててしまうというのはありだろうか?
 親の決めた許婚とでも言えば、何かと閉ざされた感の強い花守の里のこと、信憑性はいくらでもついてくるだろう。
 多分。
「うーん……」
 イマイチ。
 使い古された手だけあってインパクトに欠けるというのも正直なところ。あの蒟蒻のようにぬるりとした神経を持つ慶介に、こんな小手先の誤魔化しが通用するとは思えない。
「ちょっと待って」
 なんか、アタシってばあいつのこと買っているみたいでムカツク。
 一応手強い相手であるという認識は持っているということか。
 おのれ。
 並の配役では無理だが、人選によってはなんとかなるかもしれない。一度捨てた案を拾い上げもう一度吟味してみる。
「やるなら徹底的にやらないと……」
 そう、あの手のタイプはケ(以下朱音ちゃんのイメージ保持のため自粛)の毛をむしりとるくらいにまでしておかないと、ゾンビのように何度でも息を吹き返して、執拗につきまとって来るに決まっている。
 こういう悪巧みをする時は、誰かひとりでもいい、気心の知れた共犯者がいてくれたらと思う。
 里には絶えず子供の姿があったが、何の因果か朱音の上となると飛んで大人になってしまうのだ。まあ、高校生にもなって里に残されていること自体が稀で、みんなはもっと早くに親元へと帰されてしまうのだけれど。
 里に残っているのはいわば事情持ち。朱音も、早智も。
 そしてもうひとり、
 高嶺は……
「あの馬鹿。いったいどこで何をしているのかしら」
 気心の知れた共犯者。彼がいたらきっと、今回の件も面白おかしく引っ掻き回してくれただろうと思う。
 どこまでが本気でどこまでが冗談なのか、高嶺は、そんなふうにして物事を“なかったこと”にしてしまうのが上手かった。颯斗など、何度その手で誤魔化されてきたことか。
 兄妹のように育った幼馴染は、一年半ほど前に突然、「世間を見てくる」とかぬかして山を降りて行って以来、未だ帰らないでいる。けれどそこは里のこと、何の情報も得ぬままで野放しにしているはずもないだろうから、死んだとは聞かない以上、生きていると思うことにしているのだが。
「相手、鷹虎さんにでも頼もうかなぁ」
 溜息混じりにぽつりと呟く。
 別に何をするというわけでもないし、ならば事情を打ち明ける必要もないだろう。
 ただ、人目のあるところを一緒に歩いてもらうとか、その程度のことで充分だった。勿論、親しそうであればあるほど良いのだけれど、“誰かが見ていた”という既成事実さえあれば、あとは自分でなんとでもする。
 ええ、話なんてどうとでもでっち上げてやりますとも。
 鷹虎は、見た目は三十代半ば。少々無精ひげがうるさいが精悍な顔つきの男盛りで、暇さえあれば岩山に挑んでいる元SP。インパクトなら絶大だろう。でも……
 ダメだ、渋すぎる。
「私が相手じゃ、犯罪者扱いされそう」
 例え偽りのこととはいえ、誤って少女趣味の偏愛主義者にでも見られようものなら申し訳がない。
 里には老人があふれ、年少の子供たちもそれなりにいるのだが、それ以外の層となるとぐっと数が少なくなる。その中で朱音の「石橋慶介撃退計画」に付き合ってくれそうな相手を探そうというのだから、最初から条件は厳しいと言えるのだが……
「九郎さん……」
 土手の斜面を下った先、川べりに切られた小道を、細身の青年が幼い女の子三人を連れて歩いている。秋明菊が咲き乱れる中、互いに手を引きつ引かれつして行くさまは、見るものの目にも微笑ましい。
 でも……
「ダメ。九郎さんだけはダメ。私の方がたらし込んだって思われちゃう」
 どこの世界にそうまで野の花と同化できる男がいるのだ。ええ? 柊九郎よ。当然のように溶け込んでるんじゃないわよ。そういえば春の頃には子供たちが編んだ蓮華の花冠をかぶせられていたけど、あれがまた檄似合い。
 見るがいい、石橋慶介。お前が目指しているのであろう草食系天然男の完成形がここにいる!
 朱音が慶介に対して、どうにも釈然としないものを覚えるのは、ひとえに九郎の存在が近くにあるからだろう。九郎に比べれば慶介のそれはまだまだ粗い。
ただし、九郎の本性が見た目通りの人畜無害なのかというと、どうだろう?
 わからない――
 というのが本当のところ。何かあるとは思うのだが、見えない。穿ちすぎた揚句、 「案外本物だったりする?」
 思考は絶賛迷走中。答えという出口があるのかどうかは……依然朱音にも見えないままでいるのだった。

Back / Next / Index / Top

Designed by TENKIYA    Photo by NEO HIMEISM
inserted by FC2 system