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 女の子のテーゼ 9


(六)
 石橋慶介事件の後、朱音の周囲にはいくつかの変化があった。
 順を追って話すと、まずは譲葉里香子のことである。
あの日曜日から十日ほどして朱音が花守に帰ると、
「あ、誉さんちのおばさん」、と呼んだ弟の颯人が容赦なくシメられていた。
 ここのところ成長の著しい颯人だったが、それを羽交い絞めにする女性は更なる長身で、百七十をゆうに越えている。誉の顔立ちは父方からの遺伝らしいが、体つきはこの母親から譲り受けたのかもしれない。小夜さんと並んだらどちらが高いのだろうか?――朱音はそんなことを考えていた。
「あら、朱音ちゃん? まあまあ、しばらく見ないうちに綺麗になって!」
「そういうもの言いが、おばさん臭いんじゃないかよ」
 颯人の捨て台詞は、拳骨ぐりぐりによって対価を払わされた。後ろで見ている早智が無表情なのがなんとも。
 冷めてるね、早智君――
 まあ、確かになんだ。実年齢は別にしても、二十代半ばにしか見えない、しかも女優のなんとかとなんとかを足して二で割ったような結構な美人に対して「おばさん」は良くないだろう、おばさんは。
「やっぱり女の子はいいわねぇ、こーんなに可愛くなるんだもの」
 よれよれの颯斗を無造作に放った後、男ばかり四兄弟の母親は感嘆とばかりに目を輝かせ、
「でも、もう少しあちこち丸みを帯びなきゃね」
 朱音の肩に手をかけたかと思うと、遠慮なくまさぐってくれた。
「なにっ!」


「大変だったわね」
 と言う里香子の問いに、朱音は「ははははは」と笑って答えた。あまり思い返したくもないので、主だった出来事と自分の短慮を詫びて早々に話を括った。
「まあ、無事で何よりよ」
 里香子の方も子細は今更なのだろう。必要以上を尋ねてくることはなかった。
 小夜の淹れてくれた紅茶は、なんともいえない色合いで、おいしそうに湯気をたてている。
「ただ……」
 やや間を置いて言葉があった。
「あなたには“花凪”を継いでもらわなくてはならないのですからね。大事な体なのだということだけは、肝に銘じておいて頂戴」
「ええ、まあ……」
「あら、らしくないわね。気乗りがしないのかしら?」
「重荷だなぁ、とは思います。正直」
 もどかしさが溜息になってこぼれた。
 歳と共に色々なものが見えるようになるのだけれど、見えてくればくるほど、己の存在がいかにちっぽけなのかを思い知らされる気がする。朱鷺子の力がどれほどのものかは、身近で見ているだけによくわかっている。
だから……
 だからこそ、早智の母親の不在はあまりにも大きく、朱音の心に暗い澱となって影を落としている。
「いきなり次って言われても……もっと適した人がいるんじゃないですか? 私なんてまだろくな術すら操れないっていうのに」
「何も今すぐどうこうしろと言っている訳じゃありませんよ。あなたが独り立ちできるまでにはまだまだたくさんの時間が必要だということくらいわかっています。確かに空木の婆様や未散さんクラスの術者はそうそう現れないでしょう。だからあなたがプレッシャーを感じている理由もね、理解はできます。でも、婆様が“次”と言われたからには、あなたが“次”なのです」
「……」
 神託にも等しいことなのだと、そう言い切られてしまっても朱音は答えることができないでいる。
 実感がないのだ――
 こればかりは、もう、どうすることもできない。
「いつもの自信はどうしたの。助けを必要にするというなら、女たちを総動員してでも対処してあげます。何も全てのことをひとりでしろと言っているわけじゃないのですよ。安心なさい。あなたはあなたにできる努力をして、徐々に力を得てくれればいいだけの話です」
 ひと通り語った後、それでもまだ朱音の顔が冴えないでいるのを見た里香子は、「困ったわねぇ」と苦笑を浮かべる。
「だいたいあのお婆があと十年やそこらでくたばるものですか。あなたが一人前になった後も漬物石のようにずっしりと上座に居座っている可能性も、」
「里香子さん、朱鷺子さんからお電話が入っていますよ。夕食をご一緒にどうでしょうか、って」
 電話を受けていたらしい小夜が奥から顔をのぞかせた。
「……」
 よもや盗み聞いていたとは思わない。思いはしないのだが……このタイミングである。朱鷺子くらいになるともう妖怪も紙一重というか、人知れずあやしげな力を備えていたとしても、誰も驚きはしないだろう。
 どうやらまだしばらくは大丈夫のようだ。
 なんの根拠もないのだけれど、そう思った。
 そしてそう思うことで、ほんの少しだけ心が軽くなった。
――何にせよ、まあ、できるところまで頑張ってみるしかないのよねぇ――
 逃げるという選択肢が無い以上、もうそうするしか道は残されていないのだから。
「じきに伺います、って伝えて頂戴! まったく。背筋が凍るほど勘のいいお婆様だこと」
 里香子と朱音、顔を見合わせて笑った。


 そして朱音の神経を擦り減らせ、苦悩を強いていた学校生活であるが、こちらも改善の兆しを見せつつあった。
 件の石橋慶介はというと、朱鷺子の巧妙ともいえる記憶操作の末、自分が人食い症に感染していたことも、また朱音を食らおうと付け狙っていたということも、些細な事柄に至るまできれーさっぱり忘れ去っていた。
 いい気なものだ……とか、心の広い朱音様はそんなこと言わない。有り難い限りではないか。さすが婆様、婆様様様。
 加えて、朱音がオプションとして申し出たもうひとつの暗示、これがまた面白いほどに威力を発揮しており、彼は今、朱音を敵対視していた輩の筆頭、高本、小金井、尾崎の三人組に執拗なまでのアプローチを繰り広げている。
「まあ、もともと粘着気質みたいだから、下手にそのエネルギーを封じてしまうよりはいいかもしれないね」
 そう言った誉の顔が二度ほどひきつったように記憶しているが……面倒くさかったので深くは考えないことにした。
 一応未遂であるということ、そして力関係からすれば一般人が伽羅を殺めるのは不可能にも近いということ、それらを考慮した上、倫理や人権の面で反対する 声もあったようだが、当然のこと朱音は激怒。花守の大物連中(常識? 何それ?、な人たち)は無責任に面白がり不必要に煽ってくれる始末。きちんとものの 分別がついているまともな大人たちは、「人としてそれはちょっと……」とは思えども、「お願いを聞いてもらえないなら、アタシが殺す」、と言ってのけた朱 音を前に彼女の報復を黙認した。
 許せ。我ら力及ばず、許せ、少年よ。しかし……食いたくなるのは仕方ないにしても、もう少し相手の性格を吟味してから事に及んだ方が良かったのぉ……
 彼ら的に問題はそこじゃないと思われるのだが、薄々育て方を間違ったかもしれないと感じていた娘が、立派に間違って育っていたことを痛感するに至った爺婆のダメージは大きい……
「なんで? 人のこと食べようとしたくせに、これしきのことで済ませてあげるのだから、逆に感謝してほしいくらいよね」
 おかげでここのところ三人組からの嫌がらせは受けていない。かえって、慶介の心変わりに憐憫の情すら覚えているようで、仲良くとまではいかないが、朱音 に対しての視線は、これまでのことが嘘であるかのように優しい。無論、自分たちの四角関係に大わらわで人のことにまでかまっている余裕がなくなったという のも大きいのだが。
 いやはや、まったくもって、平和だった。
 満足、満足。
「雪柳さん、次の英語は視聴覚室ね」
 そして、クラスを牛耳っていた三人組の重石が取れたせいか、はたまた入学以来纏っていた化け猫の皮を脱いだせいか、自然と朱音の元にも人が集まるようになっていた。 ただし性格的にもどこか似たような面々であることは否めない。まあ、有り体に言えば毒舌家の集団。後に一年四組の中でも最も厄介だったとされる第三の勢力が形成されつつあった。
 そんなわけだからして、彼女たちの会話内容は、心根の優しい者が聞けば終日涙を流して部屋に引き篭もるような過激さを有していたが、
 しかし、これがまた、いい……
 朱音は充分に満足している。
 歯に衣着せぬ彼女らがきゃらきゃらと笑うさまは、ぽつぽつと、まるで小さな花がほころぶさまを見ているかのよう。
 十五六の女の子というのは、なんとも瑞々しくて、いい……
 残る幼さも、裏合わせの残酷さも、潜む可能性を思うと、ぞっとするほどにあざやかだ。


 男の子の背中には羽がはえていると思う。
 癪だけどね。それは本当。
 あいつら馬鹿みたいに身軽だもの。馬鹿みたいに自由で、やがては何処か、好きなところへと行ってしまう。
 アタシの背中には羽なんてはえてないし、歩幅だって違うのだから、同じように駆けて行くことはできない。
 ひとり取り残されて空を見上げる。

 でもね、そこで諦めたら終わりじゃない。
 見ていることしかできないなんてさ。哀しいじゃない。
 だからアタシは探してる。
 アタシの背中、羽なんて生えてないけど、羽に代わるものを探している。
 アタシをもう一度あの空に戻してくれるもの。

 たとえば、そう……天女なら羽衣。

 それが色香なのか知性なのかはわからない。
 とにかく、アタシをとびきりに輝かせてくれるもの。
 それを得て空に戻る。
 もう一度、あの場所へと戻る。

 そしたらアタシ天女様。

 アンタたち、男たち、アタシの前に跪くのよ。


 後日、朱音が颯人と早智を伴い高校近くの商店街を訪れた日のこと。  颯人の不用意なひと言に朱音の回し蹴りが炸裂。それを二年のカメラ小僧が激写。
 以後朱音の高校生活は、一部の熱狂的崇拝と、大多数が下した未知なる危険性からの逃避という聡明なる判断の元、恙無くその日常が紡がれて行くことになるのであった。


〜・女の子のテーゼ 【完】・〜

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