青の記憶 V
何度夢に見たかわからない。この道を駆けて彼に会いに行く夢。
深緑のヴェールを織り成す木立の中、なだらかに続く傾斜を行くと、視界が開けた先に小さな白い家が見えてくる。その向こう側に続くのは空。そして海。
心地よい潮風が上気する頬を撫で、ゆるやかに波打つブロンドをさらおうとする。それを手早く指先で整えセシリーは玄関口へと向かった。室内に人の営みを感じる。本当に帰ってきているのだ と、そう思った。
リビングとして使っている一室には、初夏のきらきらとした陽射しが照り返り、まるで水面に踊る細波を見ているかのよう。
「いないの?」
少し大きめに発した問いにも返る声は無く、昼食の入った紙包みをテーブルの上に置くと、セシリーは再び家の外に出た。
吹きぬける風と、絶え間なく聞こえる潮騒の音。それに導かれるように小道をさらに進むと、そこは断崖絶壁を隔てて行き止まりになる。
「ロー……」
声を上げることをためらったため、きっと彼には届かなかっただろう。
いつか見た光景。
どこか遠くを見ている人。
これ以上踏み込めないでいるのは、子供の頃から変らない。何がそうさせるというのか……
小さな墓標と、青い薔薇の花束。
「セシリーか?」
気配を察したのだろう。彼がゆっくりとふり向いた。
風に流れる白金の髪。懐かしい声。懐かしい面影。そして、ラピスラズリにも似た青色の瞳が、今確かにセシリーのことを見ている。
「そうよ。見違えた?」
悪戯っぽく笑むと、近づいてくる彼の腕を取り共に歩いた。
「背も高くなったし、髪も長くなった」
「なによ、それ。あたりまえのことじゃない」
冗談だとわかっているからそれとなく返し、再びそっと、気付かれないようその人の横顔を見た。女の自分から見ても綺麗だと思う。まるで人形師の手が成したのかのような端正な造り。そこはかとなく、異国の香りを漂わせて。時折、実在すら疑いたくなるような不安に襲われるのは、どこか現実感を伴わない彼の容貌がそうさせるのかもしれない。絡め取る腕に自然と力がこもるのを感じた。
「フローラに似てきたな」
「これ、覚えてる? 母様のお古なの」
淡い水色のワンピースを指先で撫でる。
「写真が残っているでしょう?」
少女の頃のフローラと、今と変らない姿をしたローが、小さな四角い空間に納まっているそれ。
「あと数年もすれば私も貴方を追い抜くわ」
セシリーが低く言う。フローラは大人になり、やがて母親になった。幼かったその娘も、今まさに少女の時を経て次の舞台へと進もうとしている。
時は、確実に流れているというのに……
彼は変らない。かつてのフローラがそうであったように、ローはひとり、今度はセシリーを置き去りにしてゆくのだろう。
「あなたの“国”の医学が羨ましい」
「人口の減少に歯止めをかけることができなかったからだ。急場しのぎで取り繕ったところで、じきに行き詰るのは目に見えている」
「それでも……」
そばにいたい。ただ、それだけ。
せめて、同じ時を生きることができたなら……
言いたくなるのをじっとこらえ、セシリーはローの腕に頬をうずめた。
「今度はいつまでいられるの?」
昼食後の紅茶をいれながら問うた。
夏になると必ず帰ってくる彼だが、滞在は数ヶ月に渡る時もあれば数週間しかいない時もある。
「お願いよ。私が寄宿舎に戻るまではいてちょうだい。聞いてもらえないのなら今度こそあなたについて行くんだから」
ローは穏やかに笑んでいるが、そういう顔をしている時の彼が、本気で受けてくれているのかどうかは定かではない。いつまでも子供のたわごとと思われているのか。そう思うともどかしくて、ついついわがままを重ねてしまう。
「ずるいわ。母様だって、昔はあなたたちと一緒にあちこち旅をしていたっていうじゃない」
「子供だったからさ。ひとり置いておくわけにはいかないだろう」
「母様が亡くなられた時、私はまだ八つよ。充分に子供だったでしょう?」
「グレイがいてくれたじゃないか。フローラの場合は……そう、少し事情が違ったんだ。色々と難しいことが重なっていたのさ、あの頃は」
ローの双眸が何かを懐かしむかのようにそっと細められたのを見る。青色の瞳がさらに深さを増したような気がして、セシリーは彼の心が自らの手の届かないところへと降りていったのを知る。
いつもそう。いつもそうやって私だけが置き去りにされる……
すべてはまだ彼女が生れる前の出来事。
ふと、誰かの声が脳裏をかすめたような気がした。
ねえ、この子の髪を見て。まるで月の光で染めあげたよう……あなたと同じね。瞳の色は菫色。このまま私たちの子供として育てても、誰も不思議に思わないのではないかしら?
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